概要
2022年12月18日に放映されたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」最終回のタイトル。そして本作のタイトルである「13人」の真の意味が明かされ、諸々の伏線が全て回収された。
本作は後述する理由からタイトルにおいては色々とイジられる作品であったが、タイトルに込められた予想外の意味に、多くの視聴者が慄然となった。
ここから先は、最終回の内容のネタバレとなります。ネタバレが苦手な方はブラウザバックを推奨します。
内容
後鳥羽上皇が全国各地の御家人に義時追討を命じた、いわゆる承久の乱。
日本史上に類を見ない、朝廷と武家政権との戦争は、義時の息子で鎌倉方の総大将北条泰時の奮戦もあり、鎌倉側に軍配が上がる。
戦後、鎌倉方の裁定により後鳥羽上皇(法皇)は隠岐国へと配流され上皇の孫にあたる帝は廃される、日本は武士により統治される武家政権が確立することになった。
一方で上皇の配流と帝の廃位を義時らと共に定めたことに動揺する泰時に、義時は酒を酌み交わしながら「私が決めたことで、悪人として名を残すのも私だ」と息子を落ちつかせるが、その最中、義時は卒倒、体調が悪化しはじめたことを自覚する。
その後、鎌倉では義時に代わって泰時が北条家で発言権を増すようになり父と大江広元の廃帝殺害計画にも反対、叔父の北条時房と共に六波羅探題への赴任した泰時はこれを契機に御成敗式目の草案作りなどを行い、源頼政と以仁王の挙兵に端を発した治承・寿永の内乱から始まった世の動乱は、ようやく安寧を迎え始める。
そんな中、義時は体調を崩して度々床に伏せるようになる。その理由は、3人目の妻であるのえにより、日常的に毒を盛られ続けたことによる衰弱であった。
常々義時から冷たい仕打ちを受け、自らの息子をどうしても北条の跡取りにしたいのえにとって、義時への怒りと憎しみは既に限界を迎えていた。承久の乱の端緒となったのは、京都守護であった彼女の兄・伊賀光季が後鳥羽上皇の参陣要求を拒絶して上皇方に討たれたことであったが、のえの目からはこれすらも、義時が兄を策謀の生贄として差し出したかに見えていた。これら一連のできごとが伊賀一族全体に対する義時の冷遇と映り、のえは三浦義村を頼って用意した麻の毒を義時に盛っていたのだった(実際には義時の推薦により、のえの祖父・二階堂行政の官位は上がっただけでなく、のえの長兄・伊賀光季は朝廷との交渉も任された京都守護、次兄・伊賀光宗は政所の事務を総括する執事という要職に就けており、のえの愛息・政村も文武両道に通じた若者に育っていることから、義時との夫婦仲は冷え切っていても義時が二階堂・伊賀両家に対する配慮を怠ったわけでもないことがわかる。また朝廷軍に光季が討たれたことを知ったときには明らかに義時は狼狽しており、のえの兄・光季が結果として見殺しにされたことに気づいてはなかった)。
義時は状況的に自らに毒を盛れる人間がのえしかいないことから、彼女が自分を殺そうとしていることに勘づく。
のえに対して、義時は執権の権威を守るために離縁こそしないものの、自分の前から消える様に言い放ち、のえは義時に悪態をついた末に捨て台詞を吐いて義時の元を去った。
そして義時は義村を呼び出し、のえが自分に出したのと同じ薬酒を勧める。いくら断っても勧めてくる義時を前に言い逃れ出来ぬと悟った義村は一気に酒を呷ると、義時に対する長年のコンプレックスをぶち撒ける。
「お前にできたことが、俺にできないわけがない!」
「俺はすべてにおいてお前に勝っている」
「お前は何をやっても不器用で、のろまで……そんなお前が今じゃ天下の執権」
「世の中不公平だよな」
「これだけ聞けば満足か!」
しかし薬種に毒は入っておらず、思い込みでふらついていた義村はその事を告げられるとけろりと起き上がる。ここで一度死んだ身と思い、生まれ変わって泰時に忠誠を尽くせと命じられた義村は負けを認め、何度目か分からない北条への忠義の誓いを、ここに来て初めて真剣に立てた。
のえと義村が去り、泰時と時房らはいまだ在京中と、近しい人物がどんどんいなくなり、義時は政子と二人きりとなる。ある日、二人はこれまでの行いを振り返り、義時は政子の前で頼朝の死後、今までに自分が政治闘争の末に死に追いやった人物の名前を上げる。
「それにしても、血が流れすぎました。頼朝様が亡くなってから、何人が死んでいったか。梶原殿、全成殿、比企殿、仁田殿、頼家様、畠山の重忠、稲毛殿、平賀殿、和田殿、仲章殿、実朝様、公暁殿、時元殿。これだけで『13』。そりゃ、顔も悪くなる」
しかし、そんな義時の独白を聞いた政子は顔を強ばらせた。
「待って……。頼家がどうして入っているの?」
義時は頼家の死に対して、政子には頼家の死の真相は伝えず、病死とだけ伝えていたのだが、ここに来てその事を忘れ、つい事の真相を口走ってしまった。
それでも、ある程度の真相をそれとなく察していた政子は、必要以上に義時を責める事はせず、義時にあくまでも真実だけを伝えてくれる様に頼み込むと、義時は頼家を粛清するに至ったまでの経緯を説明する。
「だめよ、嘘つきは。自分のついた嘘は覚えておかないと」
息子の死の真相を知り、動揺しながらも、義時のした事を受け入れようとする政子。その直後、義時は発作に見舞われ、政子に薬を持ってくる様に頼むと、帝の殺害を企んでいる事を明かす。ちなみにこの帝というのは先帝で後鳥羽院の孫である「九条廃帝」こと仲恭天皇(後鳥羽院の第三皇子・順徳院の第三皇子、当時5歳)と思われるが、当時の帝で後鳥羽院の甥である後堀河天皇(後鳥羽院の同母兄・守貞親王の第三皇子、当時12歳)とも取れるニュアンスである。
鎌倉方は後鳥羽院を返り討ちにこそしたものの、院は流刑先の隠岐で尚も再起を狙っており、また九条廃帝の復位を狙う一派もいた。義時は大江広元の進言もあり、後の憂いを無くすべくあえて幼い先帝をも葬ろうとしていたのだ。
ここに来ても尚、血を流し続け修羅の道を歩もうとする義時に思わず声を荒らげる政子だったが、義時は後継者の泰時のため、そして鎌倉のためにも、押し潰してきた者達の怨嗟と呪詛を全て自らの悪名として抱えて地獄へ持って行くべく、あくまでも修羅の道を歩み続けようとする。
病気の発作に苦しむ義時に、政子は泰時にはそんな事など必要がない事を訴えるが、義時は彼女の言葉に耳を傾けようとはしなかった。
そして遂に、政子は義時の目の前で彼の薬を床にぶち撒ける。
それは政子にとって、実の息子(頼家と実朝)と孫(一幡と公暁)を殺した義時への復讐であり、己の良心を押し殺して修羅の道に苦しんできた弟への救いでもあった。
政子は苦しみ悶える義時に、近い内に自分も死ぬだろうことを告げながら、義時に悪行を止める様に言う。しかし、義時はそれでもやり残した事の為に生きるべく、烏帽子が脱げてしまうのも構わず(当時、人前で烏帽子を脱いだ姿を見せるのは大きな恥とされた)、床にぶち撒けられた薬を舐めようと、這いつくばって政子の足元まで来るが、彼の目の前で政子は床に溜まった薬を拭き取ってしまう。
遂に自分の命運が尽きた事を認め、政子に泰時の事を頼み、彼へ頼朝の持仏観音を送るよう姉に託した義時は、泰時が最初にして最愛の妻である八重姫に似ていることを独白する。
しかし政子はそんな義時に、泰時が八重よりも彼の若い頃に似ている事を告げる。優しく実直で、純朴で女心に疎く、平和と調和を目指し、理不尽な事には素直に怒る……そんな若者であった頃の義時に。
発作による猛烈な苦しみの末、眠るように事切れる義時。その死に顔に冷酷無慈悲な「執権・北条義時」の面影は無く、かつての「小四郎」のように穏やかであった。
物言わぬ姿となった義時の傍らで政子のすすり泣く声だけが小さく響く中で、物語は静かに幕を閉じる……。
「姉上...」
「ご苦労さまでした...小四郎」
史実においては
義時の死について
近年の研究で義時の死因は病死説が大勢を占めている。史実では脚気と暑気あたりのため、かねてより体調不良に苦しんでいたが、ある日、体調が急に悪化、念仏を唱えながらそのまま亡くなったとされる。一方で義時は毒殺されたという説も少なからずあり、妻の伊賀の方・三浦氏・政子がその黒幕という説もあるが真相は不明。脚本家の三谷幸喜は、本作においては義時死亡の真相として、三人とも関わっているが、三人共黒幕でないという形にまとめたのである。
毒殺説は前述のように承久の乱の後、仲恭天皇を廃し、後鳥羽院・土御門院(承久の乱には関与していなかったが、京に残るのは忍びないと自ら配流を希望した)・順徳院を配流した “大悪人”・北条義時が何の報いも受けずに穏やかに病を患い死去したのがおかしいという人々の願望が、義時は誰かの恨みを買って毒殺されたのではないかとの風聞からきている。義時が多くの御家人の粛清にかかわっていたのも事実だからである。また、鎌倉幕府の役人に逮捕された僧・尊長(史実では伊賀の方の娘婿だった一条実雅の異母兄で高能の異母弟。後鳥羽上皇の側近であったが、承久の乱直前に逃亡し、乱の終結から6年後になって逮捕された)が「北条義時の妻が義時を殺したときに使った毒で自分を殺せ」と破れかぶれで口走ったとの伝承もあり、これらの噂は当時から広く伝わっていたとも思われる。
今作における義時の最期は、これらの伝承を巧みに織り交ぜたものとなる。
義時死後の鎌倉
政子の言う平和な世の中であるが義時の逝去直後に伊賀の方(のえ)と伊賀一族が伊賀氏の変を起こしたこと(変後、伊賀の方と伊賀一族は粛清を免れ所領没収の上で流罪になるが、伊賀一族はのえの死後、所領を返され再び御家人として幕府に仕え続けた)を除けば鎌倉時代は、ナレーションにもあったように泰時の時代には一旦落着きを見せる。
しかし、政子は義時の死からわずか一年後に他界。さらに泰時が死去した後に執権職を継いだ泰時の孫・経時は反得宗の動きに対処、時頼(経時の弟)から時宗に掛けて4代将軍・九条頼経、名越光時(北条朝時の嫡男)らを追放した宮騒動、三浦一族を滅ぼした宝治合戦、北条時輔(時宗の異母兄)、北条時章(光時の弟)らを粛清した二月騒動を経て、ついに、鎌倉幕府最大の危機の元寇を迎えてしまう。時宗死後は北条一族・御家人・御内人が互いに争うようになり霜月騒動では内管領・平頼綱(禅門)が対立する秋田城介・安達泰盛を滅ぼし専横を極めたが、その禅門も、禅門の専横を嫌った執権・北条貞時(時宗の子)に滅ぼされている(平禅門の乱)。続く嘉元の乱では貞時と対立する連署・北条時村(政村の子)の邸宅を御内人・北条宗方が襲って討ち取っているが、すぐに貞時が黒幕であることが露見、宗方は貞時に見捨てられ非業の最期を遂げている。鎌倉時代末期には病気を理由に執権職を退いた北条高時に代わって北条貞顕が就任、そのことに不満をもった高時の弟・泰家が出家し貞顕を襲撃するとの噂が流れて貞顕はわずか10日間で辞任する嘉暦の騒動を経て後醍醐天皇が「得宗・北条高時追討」の綸旨を各地の武士に送ったことで、楠木正成・新田義貞・赤松円心らが立ち、足利高氏・佐々木道誉らが寝返ったことにより鎌倉幕府は滅亡する。
鎌倉幕府滅亡後も、北条時行や泰家をはじめとする北条家の残党による抵抗自体はあったが、それも鎌倉再興を果たすには至らず、その後は後醍醐天皇による「建武の新政」が失敗した結果南北朝時代に突入する。
余談ながら鎌倉時代から南北朝時代の後の歴史についてざっくりとまとめると、建武政権から独立し幕府を開いた足利将軍家も足利直義と高師直・師泰兄弟の対立から始まった観応の擾乱が泥沼化、師直・師泰兄弟側についた足利尊氏・義詮親子と足利直義・直冬(尊氏の庶子、直義の養子)方が激しく争ったが、3代将軍・義満は南北朝を統一した。一方、関東では鎌倉府とそれに従わない守護や国人領主との戦争が度々起こり小山氏の乱や伊達政宗の乱などが発生していた。そして上杉禅秀の乱で関東はいち早く大戦乱時代に突入し越後応永の大乱なども発生する。室町将軍と鎌倉公方は義満と氏満(尊氏の四男・基氏の子)の頃から対立しており代替りする度に対立の激しさが増した。特に氏満の孫・持氏は6代将軍・義教に対しあからさまに反抗していたが、永享の乱で義教の命を受けた上杉憲実に討たれ鎌倉府は滅亡する。しかし「万人恐怖」と世に恐れられた義教も結城合戦後の祝勝会で赤松満祐・教康父子に暗殺され、義政の時代に関東での享徳の乱や畿内の応仁の乱により日本全国が大戦乱となる戦国時代に突入する。
本格的な平和は、織豊時代を経て徳川家康が創る江戸時代まで待たなくてはならない。
視聴者からの反応
「鎌倉殿の13人」の真の意味
詳しくは鎌倉殿の13人の本記事に書かれているが、本作のタイトルは十三人の合議制にかかっていると思われたが、翌週に欠けた梶原景時を皮切りに13人のメンバーがごく早い時期に入れ替わる事を多くの視聴者からイジられていた。
また、実際に放送されると、メンバーの数自体も、発足した当初からすぐに二代鎌倉殿・源頼家が取り立てた6人を加えて19人に増加するなど、その内容の変遷から内容の高評価に反比例して、作品のタイトルとしては微妙な扱いを受ける事が多かった。
そんな中明かされた、頼朝死後に義時の行動によって死に追いやられた人間が(すぐに思い出せるだけでも)13人という本作のタイトル回収に、そのミスリードぶりと、実際に義時が手を下した人間の数の多さに多くの視聴者が慄然とした。
ちなみに「せつや一幡を省いて無理やり13人にするのはおかしい」という声も僅かながらあったが、義時がカウントしたのはあくまで政治に関わった大人の一例、言い換えるならば義時の仲間と言える人間や政敵ばかりであるため、この点で数から省かれたのだと思われる。
また、鎌倉時代はおろか江戸時代にいたるまで一幡のような元服前の子供はいつ死んでもおかしくない為系図に載らないこともあり、一人前とみなさないということ、女性に至っては本名が伝わっておらず、せつや実衣という名も脚本家・三谷幸喜の創作であることから、一幡とせつは比企一族としてまとめられていると考えられる(そもそも乳幼児期を乗り越えたとしても若年のうちに死亡することが少なくなく、無事成長するようになったのは昭和中期以降である)。
前代未聞の最期
義時が迎えた最期は、第47回「ある朝敵、ある演説」と対になっている。後鳥羽院によって朝敵の汚名を着せられた義時は、甘んじて罰を受けて亡き主君・源頼朝や多くの御家人と作った鎌倉を守ろうとする潔いものであったが、第48回「報いの時」では廃された九条廃帝(仲恭天皇)が後鳥羽院派によって擁立され、後鳥羽院の帰京を阻むため廃帝を害することを最後の目的に生きようともがいている。
義時の最期は廃帝弑逆の志が引き金になり今までの悪行が祟ったものとは言え、死の際で毒と病の苦しみに悶えのたうち、床に溢れた薬を舐める為に床の上を這いつくばった末に、未練を残して死ぬという、大河ドラマの主人公にあるまじき無様で悲惨な末路であった。
大河ドラマ(スピンオフ含め)や大型時代劇の主人公(『三姉妹』や『獅子の時代』『山河燃ゆ』などの主人公が架空の人物は除く)が迎える末路としては
1.完全燃焼して死を迎える主人公(死の描写はされない作品もある)
例:北条政子・毛利元就・井伊直虎・前田利家&まつ・黒田官兵衛・山内一豊&千代・徳川家康・直江兼続・徳川秀忠・伊達政宗・春日局・宮本武蔵・柳生宗矩・徳川家光・真田信之・徳川吉宗・篤姫・勝海舟・秋山好古・徳川慶喜・新島八重・渋沢栄一・川上貞奴・金栗四三・田畑政治など
2.非業の死を遂げる主人公
例:平将門・武蔵坊弁慶・源義経・織田信長・明智光秀・真田信繁・大石内蔵助・井伊直弼・坂本龍馬・近藤勇・土方歳三・大村益次郎・西郷隆盛・大久保利通など
3.志半ばにして病に倒れる主人公
例:平清盛・源頼朝・足利尊氏・北条時宗・武田信玄・上杉謙信など
4.晩節を汚したりしてしまった主人公
があるが、彼ら彼女らは大なり小なりある程度は自身の死を受け入れ「是非に及ばず」などと悟ったりして自分なりの区切りをつけた上で亡くなるのに対して、義時の死は、未練を諦めきれないままに、最後の最後まで生に執着するも最後は事実上姉に引導を渡される形での最期という事で、ここまで酷い死に様を見せた事に衝撃を受けた視聴者が多かった。
また、その死に様にかつて義時が頼朝に阻まれて助けられなかった上総広常の最期を重ねる者も多く、曲がりなりにも最期は一息に楽にされた広常と死ぬまで苦しんだ義時との違いに何かを思う者も多かった。
運慶の「仏像」
義時は最終回に至る前に、兼ねてより親交があり、日本史上でも屈指の彫刻家である仏師の運慶に、自身と似せた仏像を造るように命じており、最終回にて遂にそれが披露される事になった。
運慶自身は、義時に対して前々から義時をモデルにした仏像を彫ってやっても良いと言っていたが、ある一線を越えた時期から義時を見限っており、仏像を彫る様に命じられた時も、明確に拒絶していた。
そんな中、ようやく運慶が完成させた仏像は、顔が正中線でズレてなおかつ歪んだ姿をした見る人を誰しもゾッとさせるような醜悪な妖怪にしか見えない像であった。
当然、この仏像を完成させた運慶に対して義時は激怒するものの、運慶を殺す様な事はせず、仏像を斬り捨てようとするが、そこでのえの毒により足元から崩れ落ちるという姿を見せ、恰も仏像が報いを与えたかの様な場面となった(姉・政子に「この像は私だそうです」と言い、「人に見せられませんから、燃やすつもりです」と述べているが、この後どうなったかは描写されてない)。
ちなみに、この仏像は、前面から見ると上述の通りにピカソのキュビズム的な要素を押し出した姿をしているが、背後から見ると後頭部頭には13個の穴が空いており、その手の形は施無畏与願印と呼ばれる印相で結ばれており、仏像そのものは如来形として造形されている。
如来形とは仏像の中でも特に格の高い像であり、施無畏与願印は「望むものを全て与える」事を示すハンドサインである。
運慶が最後の最後に作った義時の姿としては、中々に考えさせられる仏像だろう。
「復讐」なのか、「救い」なのか
義時が事切れる直前、頼家の死の真相を聞いた政子。そのため、義時の薬を床にこぼしたの「頼家の敵討ちなのではないか?」と推測する視聴者も一定数いる。だが、その復讐心はこのシーンの政子の内面の一つにしかすぎないことを多くの視聴者は理解しており、怨嗟と憎悪を一手に引き受け、それら全てと共に地獄へと落ちてゆく覚悟を決めた義時に対して「もういいのよ」とその役目を終えることを許してくれたとも捉えられてる。
政子の義時への最後の言葉は、「さようなら」ではなく「ご苦労さまでした、小四郎」だったのだから。
さらに、頼朝亡き後伊豆に戻ろうとする義時を引き止め、評定衆の13人目に引き入れたのは政子であるため、「鎌倉防衛機構」とも形容されていた義時は稼働を開始したきっかけである姉・政子の手でようやく歩みを止めることができたともいえ、そのことを救いに思う視聴者もいる。
また、死を目前にした義時に対し政子は「私たちは長く生きすぎた」「私もすぐに行きます」と言っていることから、自ら弟に手をかけたことで政子は義時同様地獄に向かう決意をしたということではないかと考察することもできる。事実、(本作では描かれなかったが)史実においては義時の死からおよそ一年後の1225年7月、甥の泰時が伊賀氏の変を収めたのを見届けて力尽きたように病に臥せったのち亡くなっている。
加えて、床にこぼれた薬に這い寄って舐めとろうとする義時の目前で咄嗟に衣で拭き取ったのも、息子の仇に対する追い討ちと同時に、執権として武士の頂に立っていた弟に床を舐めるような真似はさせたくないという政子の想いの表れではないかという考察も。
政子が義時に引導を渡す事については、この他にも、息子2人と孫を殺された政子と全てを任せられる息子を持った義時、前話では命を助ける為に奔走しながらも、最後の最後で手を下した事、今まで手を汚すことがなかった政子が最初で最後に手を下したのが義時だったことなど、複数の対比と因縁が絡み合ったものである。今まで善人であった政子が最後の最後で「稀代の悪女」と言われる振る舞いをして、まさに今作における総決算とでも言えるシーンとも言え、その事を考察する視聴者も多い。
ちなみに評定衆に義時を引き入れる際の政子の「13人目はあなたです!」という言葉が、ここにきて鎌倉のために粛清された人は頼家を除いて12人。「そして13人目はあなたです」という意味に転じたことに慄く視聴者も。
また、医者が義時に処方した薬についても「本当に毒消であったのか?」「もしかしたら『楽にする』薬ではなかったのか?」という考察もある。
余談
- 「報い」という言葉は往々にして「悪いことをした際に身に降りかかるしっぺ返し」のように使われるが、本来は善悪両方について言えることである(近年は悪いことの方で使われることが多いのは辞書にも書かれているが)。そのため「報いの日」というのは「義時がこれまで殺めてきた人々に関するツケを払わせられる」というのと同時に「姉・政子から労われ歩みを止めることができる祝福の日」とも捉えられる。
- 内容の項にも記した政子の台詞「だめよ、嘘つきは。自分のついた嘘は覚えておかないと」は、読めば「人を騙すからにはバレないようにやれ」という意味だとすぐ分かるが、ドラマでは「嘘つきは」で間に一拍置くことで、一瞬「嘘は悪い事だ」という素朴な発言と錯覚させる台詞回しとなっている。ストーリー序盤の直情な政子であれば後者の意味の発言をするであろうことは想像に難くなく、冷酷な義時のやり方に馴染まずにいられなかった彼女の悲哀を象徴する一言と言えよう。
- 加えて、義時は享年62。中世では老人と言える年齢であり、頼家暗殺について口を滑らせてしまったことで「自分のついた嘘も忘れてしまう→歳を取って判断力が衰えている→これ以上義時に政治を任せておけない」と政子に見なされ、義時の生を終わらせる決意につながったと考える事も出来る。
- 史実において義時や広元が仲恭天皇(九条廃帝)を暗殺しようとした事実はない。ただし北条氏が後鳥羽院や後鳥羽院と同じく対北条強硬派だった順徳院を特に警戒していたのは事実である。ちなみに鎌倉幕府を打ち倒した後醍醐天皇は土御門院の子孫(後堀河天皇の第一皇子・四条天皇が僅か12歳で崩御すると後鳥羽院の孫で土御門院の第二皇子・後嵯峨天皇が践祚、その曽孫にあたる)であり、劇中での義時や広元の懸念は別の方向から現実のものとなった。
- この回の冒頭、2023年大河ドラマ「どうする家康」の主人公・徳川家康(演:松本潤)がサービスカットで登場。「麒麟がくる」(演:風間俊介)、「青天を衝け」(演:北大路欣也)に続く出演であり、来年の本登場を含めれば、4年連続で徳川家康が出演することになり、多くの視聴者がざわめいた。
- ちなみに、本作の主人公である北条義時を演じた小栗旬は松本潤と共にかつてドラマ版「花より男子(2005、07年)」にて、それぞれ花沢類と道明寺司で出演しており、時を超えての再共演ということになった。さらに言えば当作の主人公・牧野つくし役の井上真央は「花燃ゆ(2015年)」で、道明寺椿役で『家康』では家康の母・於大を演じる松嶋菜々子は「利家とまつ(2002年)」で主人公を務めており奇しくも、(ドラマ版の放送前後にはなるが)大河主人公経験者を四名も輩出した作品になった。ちなみにアニメ版で類を演じたのは三浦義村役の山本耕史である。
- なお、「どうする家康」の第1話では、三河に里帰りした家康を出迎えた家臣の1人・酒井忠次が「源頼朝様が天から降りられたようだ」と言う一幕があり、鎌倉殿最終回へのアンサーなのでは?と話題になった。
- 本作の最後は物言わぬ体となった義時に政子が啜り泣きながら寄り添う中画面が暗転し政子の啜り泣く声だけが響き、エンドロールが現れるというものであったが、一説では人間が死亡する際に五感のうち最後まで残るのは聴覚であると言われていることから、あの描写は義時が絶命する際の最後に感じたものだったのではないか、という考察もなされている。奇しくも、のえが最後に義時に吐き捨てた「大好きなお姉さまに見守られながら死になさい」という言葉通りとなった。
- ちなみに件の毒入り酒はトキューサがそれと知らず義時の部屋からちょろまかしており、泰時・盛綱・朝時・初との酒の席で飲んでいたのだが、早々に口の痺れに気づいたため大事には至らなかった。
- 史実では時房はその後も泰時を支え、義時(享年62)よりもやや長命な66まで生きた。なお泰時は時房の死から2年後に60歳で病死。奇しくも泰時の命日は父・義時と同じ6月、しかも僅かに二日違い(義時が13日、泰時が15日)である。
- 三谷幸喜は特番でのインタビューで「あれだけのやった義時が穏やかに死ぬというのは違うと思った」「だからふさわしい最期を用意した」という旨の発言をし、小栗旬と小池栄子は「衝撃的だが納得のいく末路」という感想を持ったため、どのような最期になのかについてはかねてから注目されていた。
- 鎌倉殿の13人公式HPで公開されていた松本・小栗二人のスペシャル対談にて、松本はこの衝撃的な最終回を「豪速球のようなラスト」と評しており、小栗も脚本を受け取った直後は「三谷さんがすごい脚本を書いてくれた」とプレッシャーを感じたという。
- 小栗旬は“義時を衰弱させる”ために撮影3日前から減量しており、見かねた菊地凛子がパンをあげたことが、トークイベント『グランドフィナーレ』で語られた。
- また同じくトークイベント『グランドフィナーレ』では撮影終了までの順番がのえ(菊地凛子)、三浦義村(山本耕史)、北条政子(小池栄子)がそれぞれ1日ずつ割り振られており、最終回「報いの時」でのえ、義村、政子の登場順と同じことが小栗旬の口から明かされている。
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しぬどんどん 鎌倉殿の13人第49回 北条政子 北条義時 ある朝敵、ある演説