生没:生年不詳 - 永禄12年4月7日(1569年5月3日)
別名:道好
通称:但馬守
生涯
政次の生まれた小野氏は、遠江国引佐郡井伊谷に勢力を有する国人・井伊氏に家老として仕えてきた家柄であり、政次も父の小野政直より家老職を世襲している。
とはいえ、政次の生まれた頃の小野氏は、父の政直が井伊直満との対立から、駿河の今川氏と通じてこれを謀殺しており、こうした事情から井伊家中では「奸臣」と看做される立場にあった。
この立場は政次が家督・家老職を継承した後も変わらず、時の井伊氏当主であった井伊直盛は、桶狭間の戦いへの従軍に先立って分家筋の中野直由に、後継と定めた井伊直親(直満の遺児)の後見を遺言している。これは小野氏による、井伊家中での専横への懸念を念頭に置いての処置であったと見られている。
父親世代の因縁もあってか、政次と直親との関係は決して良好とは言い難く、やがて直親が今川を離反した徳川家康と密かに内通するに至り、政次はその事実を今川氏真へと密告。これが原因で直親は釈明のため駿府へ向かう道中、今川の手の者により非業の最期を遂げる事となった。時に永禄5年(1562年)の事である。
直親の死後、政次は氏真の命を大義名分として、直親の子である虎松(後の井伊直政)も誅殺せんとするも、これは井伊氏寄りの今川家臣・新野親矩によって阻まれた。しかしその親矩や、前出の中野直由も含め、その後の数年間で井伊家中の主だった家臣が相次いで死去し、本拠である井伊谷城も無主状態となった。
これを受けて、井伊氏は直盛の娘で僧籍に入っていた次郎法師が還俗し、井伊直虎と名を改めて当主となった。その直虎とは、永禄9年(1566年)に氏真が井伊谷一帯に出した徳政令の施行を巡って対立しており、直虎の意向によって2年に渡り徳政令の施行は実行されなかったものの、結果的にはこの一件が今川氏やこれを後ろ盾としていた政次による、井伊氏への介入の機会を生む格好となった。
永禄11年(1568年)、甲斐の武田信玄が駿河侵攻を開始すると、駿府にて今川軍に従っていた政次に、氏真より虎松を害して井伊谷を手に入れ、その軍勢を率いて加勢するよう命令が下った。これを受けて政次は井伊谷へと入り、井伊氏よりこれを横領するに至ったが、肝心の虎松や直虎、それに祐椿尼(直盛の妻)は井伊氏菩提寺の龍潭寺に入り難を逃れている。
一方この頃、徳川家康も信玄と通じて遠江への侵攻の途上にあったが、家康は政次による専横に対し、井伊谷三人衆と呼ばれる遠江の国人(近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時)を派遣して井伊谷を奪還させ、敗れた政次は井伊谷から逃れて近隣に潜伏するも、翌永禄12年(1569年)に徳川軍による堀川城攻略と前後して捕縛され、4月7日に蟹淵にて獄門により処刑されるに至った。
政次の死と前後して、2人の息子も処刑されているが、甥である亥之助はその後も井伊氏に仕え、虎松改め直政の元服に伴って小野朝之と改名し、生涯に亘ってこれを支えた。また朝之の孫に当たる古豊やその子孫は、井伊氏兵部少輔家(直政の長男・直勝の系統)に従って安中藩、そして与板藩の家老を務め、後に『井伊家伝記』の編纂にも関わった。
異論
以上のように、今川という大大名の力を背景に専横を振るった「奸臣」として説明されてきた政次であるが、こうした人物像については前出の『井伊家伝記』の記述によるところが大きく、昨今では研究の進展によりそうした説明に対して異論も呈されつつある。
例えば、政次が井伊谷を横領した際、それによって井伊氏が今川とも徳川とも対立する事なく安全を確保できた事の不自然さや、『井伊家伝記』編纂当時の徳川家の批判が憚られていた時代背景などから、小野氏に諸々の不都合を背負わせる事によって井伊・徳川、それに井伊谷三人衆の大義名分を得る意図があったのではないかと指摘する向きもある。
また、政次が井伊家中にて専横を振るい出したのは武田による駿河侵攻以降の事とされるが、井伊谷三人衆が徳川を遠江に引き入れたのがその前後である事、またこれと同時期には直虎による文書発給もなされている事から、政次が専横を振るうような時間的余裕はなかったのではないかという疑問も呈されている。
政次が主要な登場人物(小野但馬守政次)として登場した、2017年放送のNHK大河ドラマ『おんな城主直虎』ではこうした研究成果なども汲みつつ、また奸臣と看做されてきた従来の人間像を逆手に取る形で、井伊と今川の間で板挟みになりながらも主家を守るべく、その真意を隠して今川寄りの姿勢を取りつつも、主人公である直虎と互いに「利用」し合う関係性を通し、遂には井伊の再興のため自ら「奸臣」の汚名を被り、直虎もその真意を汲む形で引導を渡すという、従来とは一線を画した解釈での人物描写がなされた。
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高橋一生 - 上記大河ドラマにおける政次役
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