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順徳天皇

じゅんとくてんのう

順徳天皇とは、日本の第84代天皇。父・後鳥羽上皇とともに鎌倉幕府打倒を目論み挙兵に及ぶも、朝廷側の敗北に伴い佐渡へと配流された。(1197年-1242年)
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生没:建久8年9月10日(1197年10月22日) - 仁治3年9月12日(1242年10月7日)

在位:承元4年11月25日(1210年12月12日) - 承久3年4月20日(1221年5月13日)


第82代・後鳥羽天皇の第3皇子で、諱は守成。異母兄に第83代・土御門天皇

母の藤原重子は平清盛の異母弟・平教盛の孫であり、平氏の血を引いている。


生涯編集

温和な気質と伝わる異母兄・土御門天皇とは異なり、順徳帝は激しい気性の人物だったとされ、父の後鳥羽上皇も自分に似た気質の順徳天皇に期待を寄せていた。この事から、正治2年(1200年)には土御門帝の皇太弟とされた他、摂政・九条良経の子女の入内や八条院領の相続など、父の意向により後継者としての地位が早くから固められていった。

承元4年(1210年)、これまた父の意向により譲位した土御門帝に代わって14歳で即位。兄の在位時と同様、実権は引き続き後鳥羽院が握るところであり、直接政務に与る事のない順徳帝は有職故実の研究に傾倒、また藤原定家に師事し和歌や詩にも深く親しんだ。


一方で順徳帝は各所への行幸も頻繁に行っており、こうした世人の目を引くような行動の多さは、前述した有職故実の研究と併せて鎌倉幕府への示威行為の一環であるとの見方も存在する。

実際、後鳥羽院が企てていた倒幕計画には順徳帝も中心的に、ともすれば父以上に積極的に参加しており、承久3年(1221年)4月には皇子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇の位に退いている。こうした反幕意識の強さは、祖母である平教子を始め、周囲に平氏の関係者が多かった事が背景にあったとも指摘されている。

しかし翌5月に発生した承久の乱において、朝廷軍は幕府軍に大敗を喫し倒幕計画は敢え無く頓挫。その戦後処理において、順徳院は首謀者の一人として佐渡へ配流とされ、息子である仲恭帝もまた、即位の礼も行われぬまま、わずかに三月足らずで廃位とされ、半帝、九条廃帝、後廃帝と称せられた(仲恭天皇という諡号が与えられたのは明治3年(1870年))。時に承久3年7月の事である。


その後20年余りに及ぶ佐渡島での生活の末、仁治3年(1242年)に当地にて崩御。宝算46。配流の当初は佐渡院と称されたが、崩御後の建長元年(1249年)に順徳院と諡された。上皇に近しい者の残した日記によれば、帰京への念に耐えきれず絶食の末に崩御された事が記されている。

また同時期には四条天皇の崩御に伴う後継者選定において、自身の皇子である忠成王(第5皇子)が鎌倉幕府の意向により、その候補より排除されている(次代の天皇には邦仁王(土御門帝の皇子)が即位)。つまるところ、自らの帰京と子孫の皇位継承の可能性が絶たれた事が、順徳院の事実上の自死に繋がったとする見解も示されている。


皇統編集

・諦子内親王

・懐成親王(第85代・仲恭天皇

  • 典侍:藤原範光の娘

・彦成王

・善統親王

  • 後宮:坊門位子 ー 坊門信清の娘

・穠子内親王

  • 後宮:藤原清季の娘

・尊覚法親王

・覚恵法親王

・忠成王

  • 後宮: ー 公雅の娘

・義尹


関連タグ編集

天皇 朝廷 鎌倉時代 鎌倉幕府 承久の乱

第83代第84代第85代
土御門天皇順徳天皇仲恭天皇

百人一首 百番目の歌い手。メイン画像。ちなみに一人目は天智天皇

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