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土御門天皇

つちみかどてんのう

土御門天皇とは、日本の第83代天皇。鎌倉時代初期に在位し、承久の乱においては関与こそしなかったものの、自らの意思で土佐へと下った。
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概要編集

生没年:建久6年11月1日/同12月2日(1195年12月4日/1196年1月3日) - 寛喜3年10月11日(1231年11月6日)


第82代・後鳥羽天皇と、内大臣・源通親の娘・在子(承明門院)との間に第一皇子として生誕、諱は為仁(ためひと)。第84代・順徳天皇は異母弟にあたる。

建久9年(1198年)、わずか3歳にして父帝からの譲位を受け、践祚・即位。『増鏡』によれば天皇は温厚な人柄であり、また世事にも疎かったことから、院政を敷き鎌倉幕府と政治的に対立することも多かった父・後鳥羽上皇から不興を買うこととなった。

この結果、承元4年(1210年)には父によって廃位を余儀なくされ、異母弟・守成親王が新たな天皇に立てられることとなった。第84代・順徳天皇の誕生である。


承久3年(1221年)に後鳥羽上皇や順徳上皇らが「承久の乱」を起こした際、土御門院はその企てには一切関与していなかったことから、父や弟たちとは違って幕府に罪に問われることはなかったが、父が遠流であるのに自分が京にいるのは忍びないとして、自らの意思で土佐国に下った。

このような事情から、後には土佐から都により近い阿波国に遷され、幕命によって宮殿も建てられるなど、幕府も上皇に対しては様々な配慮を尽くしている。土御門院を指す土佐院阿波院の別称はこうした経緯に由来するものである。

上皇の京都還幸の噂はその後も絶えることはなかったが、寛喜3年(1231年)10月、阿波国にて出家し程なく崩御。宝算37。京都長岡の金原陵(かねはらのみささぎ)に葬られた。


土御門帝の崩御よりしばらく後、紆余曲折を経て皇子の邦仁王が即位(後嵯峨天皇)し、その系統は現在の天皇家にも引き継がれる事となる。

一方で後嵯峨帝の即位は、これと競合していた忠成王の父・順徳上皇の自死の遠因となったとも伝わる(異説もあり)他、後嵯峨上皇の院政期に後の南北朝動乱の火種が生じるなど、様々な面で波紋を呼ぶ事ともなった。


皇統編集

・春子女王

・覚子内親王

・仁助法親王

・静仁法親王

・邦仁王(第88代・後嵯峨天皇

  • 宮人:高階仲資の娘

・皇女

・道仁法親王

  • 宮人:源貞光の娘

・秀子女王

  • 宮人:覚安の娘

・尊守法親王

  • 宮人:尋恵の娘

・尊助法親王

  • 宮人:定勝の娘

・道円法親王

・信子女王

  • 宮人:源有雅の娘

・曦子内親王

  • 宮人:円誉の娘

・最仁法親王

・知子女王

  • 宮人:兼尊の娘

・増仁

  • 宮人:証遍の娘

・諄子内親王

  • 宮人:雲顕の娘

・是子女王

  • 不詳

・懐尊

・寂恵


関連タグ編集

鎌倉時代 鎌倉幕府 後鳥羽天皇


皇位

第82代第83代第84代
後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇

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