生没:建保6年10月10日(1218年10月30日) - 天福2年5月20日(1234年6月18日)
在位:承久3年4月20日(1221年5月13日) - 同7月9日(同7月29日)
第84代・順徳天皇の第1皇子で、諱は懐成。第82代・後鳥羽天皇は祖父に当たる。
生涯
承久3年(1221年)4月、わずか4歳で即位。これは父と祖父が進めていた北条氏追討に備えてのものであった。しかしその企ては翌5月に、幕府軍が朝廷軍を破るという形で頓挫(承久の乱)。前述の通りこの時幼少の仲恭帝が、自らこの企てに積極的に関与していた訳ではないものの、一方で帝の名において「北条義時追討宣旨」が全国の国衙および荘園領主に出されていたことが確認されている(※)。
乱の後、企ての首謀者として父が佐渡、祖父が隠岐へそれぞれ配流となる中、残された仲恭帝もまた皇位を廃された。在位期間わずか78日、その間即位礼も大嘗祭もなきままの廃位であった。廃位後程なくして、母方の叔父である摂政・九条道家に引き取られ、承久の乱より10年余り後の天福2年(1234年)6月、父に先立って17歳で崩御。
前述した経緯から諡号・追号もなされず、崩御後長きに亘って九条廃帝、承久の廃帝などと称されてきたが、約650年後の明治3年(1870年)5月に明治天皇の命により追諡の選定が行われる運びとなった。
在位中に選定の根拠とすべき事績がない事から、順徳帝の第三子である事に由来する「仲」、諡が本来敬を表すものである事に由来する「恭」の字を取り、同年7月にようやく仲恭天皇の諡号が贈られるに至った。
仲恭帝の廃位後、皇位は祖父・後鳥羽院の系譜から、その同母兄である後高倉院(守貞親王)の系譜へと一時移る事となるが、次代の後堀河天皇(第86代天皇)、次々代の四条天皇(第87代天皇)がいずれも短命であった事から、伯父である土御門帝の皇子・邦仁王(後嵯峨天皇、第88代天皇)の即位により、皇位は再び後鳥羽院の系譜に復する事となる。
(※ ここで重要なのは、祖父の後鳥羽院が出した院宣があくまでも関東の特定の御家人らを対象としたものに過ぎず、また「北条義時を追討せよ」とまでは明言されていないのに対し、この「宣旨」は義時の追討を全国に向けて明確に命令したものであるという点である。他方で、前述の通りこの時点での仲恭帝が幼少であることに加え、その補佐として意思決定を代行できた摂政の九条道家も立場上、鎌倉との衝突には消極的であったと見られることから、誰の意向によってこの宣旨が出されたのかという疑問も呈されている)
皇統
- 右京大夫局 ー 性慶の娘
・義子内親王
関連タグ
弘文天皇 淳仁天皇:仲恭天皇と同じく、明治時代になって天皇の諡号を贈られた天皇達
鎌倉殿の13人:2022年放送のNHK大河ドラマ。作中に明確に登場した訳ではないものの、同作の最終回において主人公の北条義時が最後に弑逆を企てた相手であることが示唆されている。言うまでもないが、これについてはあくまでも同作独自の脚色であることに留意されたい