生没:治承3年2月28日(1179年4月6日) - 貞応2年5月14日(1223年6月14日)
生涯
第80代天皇・高倉天皇の第2皇子として生誕。安徳天皇(第81代天皇)は異母兄、後鳥羽天皇(第82代天皇)は同母弟にあたる。
寿永2年(1183年)の平家の都落ちの際、兄・安徳天皇の皇太子に擬されたために共に西国に伴われていたが、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した際に救出され帰京。この時すでに弟が後鳥羽天皇として即位していたため、文治5年(1189年)に親王宣下を受け、後に持明院宮を号した。
建久9年(1198年)、後鳥羽上皇の皇子である土御門天皇が即位した際、鎌倉幕府は幼帝の即位に難色を示し、また朝廷内の反後鳥羽派が新帝の候補として、守貞親王を担ぐ動きも見られた。しかし反後鳥羽派の勢力はその後の政争を経て力を失い、さらに後鳥羽院の意向により土御門帝が弟の順徳天皇に譲位させられるなど、後鳥羽院の系譜による皇統の継承がほぼ確立した事で、自身の皇位継承の可能性がない事を悟った守貞親王は建暦2年(1212年)に出家、行助と号した。
その後の8年間は平穏な日を送っていた行助であったが、承久3年(1221年)に発生した承久の乱により、その運命も俄かに一変する事となる。乱の首謀者として後鳥羽院や、それに関連する皇族らが軒並み排除され、後鳥羽院の系統による皇位継承が否定された事で、空位となった天皇の候補として行助の三男・茂仁王(後堀河天皇)に白羽の矢が立てられたのである。
後堀河帝もこの時10歳と幼かった事から、鎌倉幕府はその父である行助に「太上天皇」の号を奉り、事実上の法皇とする事で院政を敷かせた。皇位に即かず、なおかつ既に出家の身であった親王(入道親王)が「治天の君」に即く事は過去に全く先例のない事であった。
行助入道親王による院政は、薨去までのわずか2年のみと短期間であったが、その間承久の乱後の戦後処理や、朝廷内の混乱の収拾に尽力し、公武の融和に実績を残す格好となった。薨去の後北白河に葬られ、「後高倉院」という院号を贈られた。
系統
・尊性法親王
・利子内親王
・能子内親王
・本子内親王
・道深法親王
・邦子内親王
・茂仁王(第86代・後堀河天皇)
- 不詳
・有子内親王