鎌倉時代初期の公家・歌人。京極中納言と号する。諱は「ていか」と有職読みされることが多い。
概要
平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、御子左家の歌道の家としての地位を不動にした。代表的な新古今調の歌人であり、その歌は後世に名高い。俊成の「幽玄」をさらに深化させて「有心(うしん)」をとなえ、後世の歌に極めて大きな影響を残した。
経歴
応保二年(1162)、藤原俊成49歳の時の子として生れる。母は美福門院加賀。似絵で有名な藤原隆信は異父兄。
20歳頃から父の教えに従って本格的に詠作をはじめ、九条良経(兼実の次男)らの庇護のもと新風和歌を開拓。「正治初度百首」では後鳥羽上皇から高く評価され、院の歌壇の中心的歌人となり活躍。『新古今和歌集』撰者の一人ともなった。
しかし、承久二(1220)年に後鳥羽上皇の怒りを受けて閉門となり、そのまま承久の乱を迎えた。乱後の文暦二(1235)年に『新撰和歌集』を単独撰進。
天福元(1233)年に出家し、法名は明静。
晩年には古典研究や書写校勘ら努め、多くの功績を残した。
自撰歌集『拾遺愚草』、歌論書『近代秀歌』『毎月抄』、日記『明月記』の他、『詠歌大観』『顕註密勘』など。
性格は非常に強情で気性の激しさで知られた後鳥羽院や順徳院さえも辟易させたこともあった。
『うた恋い。』での定家
出家を果たして『新撰和歌集』を奏上した直後の文暦二(1235)年、自由な選定のままならなかった『新撰和歌集』の不評振りにやさぐれている所、宇都宮頼綱に『小倉百人一首』の選定・色紙の作成を依頼され、それを完成させる。
作中では式子内親王とのロマンスの逸話が取り上げられている他、要所要所で案内役としてイントロを務めるが、73歳時点であるに拘わらず少年のような容姿である上金髪碧眼というアバンギャルドな見た目は物議を醸した。しかも、アニメ版では東京スカイツリーになったり、紀貫之らと現代のビーチで砂風呂やスイカ割りを楽しんだりと、更にフリーダムな事になっている。
代表作
来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くや藻塩の 身もこがれつつ
(権中納言定家(97番) 『新勅撰集』巻13・恋3・849)