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藤原俊成

ふじわらのとしなり

平安時代後期〜鎌倉時代初期の人物。「千載和歌集」撰者。歌人・判者として活躍した他、指導者としても多くの歌人を育て、新古今歌壇の礎を築く。
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生涯

父は御子左流・藤原俊忠、母は道綱流・藤原敦家女であり、藤原道長の玄孫、「蜻蛉日記」の著者・道綱母の来孫にあたる。「讃岐典侍日記」の讃岐典侍長子は母方の大叔母。
藤原定家の父、寂蓮法師の養父。

青少年期

10歳で父・俊忠を亡くし、その前後に名を顕広と改め、姉・忠子の夫・藤原(葉室)顕頼の猶子となる。諸大夫の家柄だった葉室家は、顕隆・顕頼の代で各々白河院・鳥羽院の近臣となり、「夜の関白」と呼ばれる程の権門となっていたが、顕広の官途は諸大夫並みだった。

和歌は母方の祖母・伊予三位兼子から手ほどきを受け、25歳の時に兼子の兄弟・道経の紹介で、歌界の長老・藤原基俊に入門。「古今和歌集」の伝統を踏まえた抒情性の豊かな歌風を形成した。

官位の停滞、母を亡くした悲嘆、出家願望を込めて「述懐百首」を詠み、崇徳帝内裏歌壇に迎え入れられる。崇徳上皇が久安百首詠進を命じた13人の歌人の1人に選ばれた他、数多の先輩をさしおき、同百首の部類を命ぜられた。

またその頃、妻の兄弟の妻、つまり義妹である美福門院加賀と熱愛の末 結婚、二男八女(七女説も)をもうける。その六女(五女)が「たまきはる」の著者・建春門院中納言(健御前)であり、次男が藤原定家である。また、鳥羽院の寵姫・美福門院の庇護を受けることになり、官位の停滞を脱する。

壮年期

保元の乱がおこり、良き理解者であった崇徳上皇が讃岐に遷幸されると歌人としての活躍の場を失う。まもなく二条天皇が歌壇を形成したが、二条天皇は藤原顕輔の子・清輔を重用したため、顕広は清輔の博学と名声に圧され、内裏歌壇から遠ざかるようになる。
しかしやがて、地下の歌林苑や平家一族が主宰する歌会等に参加するようになっていった他、息子・藤原定家や寂蓮の指導にあたり、後に藤原家隆や式子内親王など優秀な歌人を多数輩出することになる。官位もようやく公卿と呼ばれるまでになり、俊成と改名して御子左流に復する。しかし、安元二年に瀕死の大病にかかったため、職を辞して出家した。

老年期

藤原清輔が逝去すると、摂関家・九条兼実から師として迎えられ、右大臣家百首を詠進し、守覚法親王に家集『長秋詠藻』(六家集の一)を奏するなど、名実ともに「和歌の道の長者」(「玉葉」)となる。

そのような中、後白河法皇より『千載和歌集』の撰進を命ぜられる。世情不安定となり、崇徳院の怨霊や平家が都落ちするといった噂が流れていたことから、怨霊の鎮魂と平家の懐柔が目的だったと推測されている。なお、『平家物語』に都落ちする平忠度とのエピソードが描かれるが、史実である可能性は低いとされる。

九条良経が催した六百番歌合の判者をつとめ、歌学書『古来風躰抄』を著す(後白河法皇皇女・式子内親王に奉ったものと推測されている)。
後鳥羽天皇が和歌所を設けるとその寄人となり、後鳥羽院歌壇の様々な歌会の判者をつとめ、九十賀宴を賜った。

有名な歌

世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
【述懐百首・鹿】*百人一首

憂き身をば 我だに厭ふ 厭へただ そをだに同じ 心と思はん
【述懐百首・片思】

よしさらば 後の世とだに 頼めおけ 辛さにたへぬ 身ともこそなれ
【美福門院加賀に送った歌】*うた恋い。和歌撰

面影に 花の姿を 先立てて 幾重越え来ぬ 峰の白雲
【崇徳院の近衛殿御幸・遠尋山花】*無名抄

夕されば 野辺の秋風 身にしみて 鶉鳴くなり 深草の里
【久安百首・秋】*無名抄

恋せずば 人は心も 無からまし もののあはれも 是よりぞ知る
【左大将(藤原実定)歌会】

あしたづの 雲居に迷ふ 年暮れて 霞をさへや へだてはつべき
【定家が解官されて後白河院に送った歌】*十訓抄・古今著聞集

またやみむ 交野の御野の 桜狩 花の雪散る 春の曙
【摂政太政大臣家(藤原良経)歌会】

『詞花和歌集』以下の勅撰和歌集に414首が採録されている。

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和歌 百人一首

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