概要
平安時代末期から鎌倉時代前期に活躍した歌人・藤原定家の日記。
明月記の名は鎌倉時代には見えず、定家は「愚記」(自分の日記を謙遜した意)と記し、南北朝時代の冷泉為秀も「定家卿記」と記している。別名で照光記とも。
定家から息子の為家へ、さらに為相へと御子左冷泉家当主に伝えられたもので『藤原為家譲状案』に、その相伝が記されている。
現存の収録記事は治承4年(1180)2月、定家19歳から嘉禎元年(1235)12月、74歳までのものである(途中欠落箇所あり)。
現在冷泉家時雨亭文庫に残されている定家自筆の『明月記』は全五十四巻で、建久3年(1192)31歳から、天福元年(1233)52歳までのものである。
余談
もう一つの「明月記」
一般に知られている日記とは別に、同じ定家作の歌論書で、「明月記」と呼ばれる著があったとされるが、現存しない。『毎月抄』に「住吉参籠の時、汝月あきらかなりと冥の霊夢を感じ侍りしによりて、家風にそなへんために明月記を草しをきて侍る」と見える。冷泉家時雨亭文庫蔵の『愚見抄』『三五記』(上巻の歌体の部分)『桐火桶』は、冷泉家に伝えられた『毎月抄』を基に、定家の意を忖度して、『毎月抄』に見えるが現存しない幻の歌学書「明月記」に擬した形で作られたと考えられ、十五夜を意味する「三五記」という書名は、この「明月記」との関係を暗示している。二条家によって増補され、『愚秘抄(鵜本末)』『三五記(鷺本末)』という形となり、両書を合わせて「鵜鷺」で月中に住む「兎」を意味することも「明月記」との関係をうかがわせる。
公家と武家との結婚
『明月記』天福元年12月27日条には、「関東女多入洛、聞之、月卿雲客多与妻離別」と記されており、妻と離別して武家の娘婿となる公家が多かったことが読み取れる。多くの公家に御家人の女婿となる事で利益を得ようとする意識があったことが窺える。実際、定家の息子・為家は、御家人宇都宮頼綱の娘と結婚している。また、定家の廻りでも、嘉禄三年(1227)2月8日、西園寺実氏の異母弟実有が北条義時女子を室に迎えたり(明月記は「母儀去年入洛競望之聟中武州可許云々、羽林幸運之来時歟」と記している)、大炊御門家嗣は妻・坊門忠信女子を離別したり、天福元年(1233)11月には二条親季が妻・日吉社禰宜成茂女子を離別している。