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足利成氏

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あしかがしげうじ

足利成氏(メイン画像左側の人物)とは、室町期の武将・政治家。永享の乱以降の混乱を経て第5代鎌倉公方に擁立されるも、父と同様に関東管領上杉氏との対立から享徳の乱が勃発。鎌倉を追われながらも初代古河公方として上杉氏などとの抗争を繰り広げた。(1438年-1497年)
足利成氏(メイン画像左側の人物)とは、室町期の武将・政治家。永享の乱以降の混乱を経て第5代鎌倉公方に擁立されるも、父と同様に関東管領上杉氏との対立から享徳の乱が勃発。鎌倉を追われながらも初代古河公方として上杉氏などとの抗争を繰り広げた。(1438年-1497年)

生 没:永享6年(1434年)/同10年(1438年)-明応6年9月30日(1497年10月25日)

別 名:万寿王、永寿王

官 位:従四位下、左兵衛督


生涯

生涯

幼少期~鎌倉公方時代

室町時代、関東にて勢力を有した武将の一人。第4代鎌倉公方足利持氏の子息の一人に当たる。

上記の通り生年や幼名が確定を見ていないのも含め、その幼少期については今もって謎の残る部分が多い。現時点で有力とされているのが、次の2つの説になる。

  1. 永享10年に生まれ、嘉吉元年(1441年)の結城合戦(※1)の後、上の兄たちとともに捕らえられながらも処断を免れ、その後紆余曲折を経て美濃守護である土岐氏の元で庇護されていたところ、宝徳元年(1449年)に鎌倉へ出立し鎌倉公方となった
  2. 永享6年に誕生、父・持氏と兄・義久が永享11年(1439年)に関東管領や室町幕府との戦いにて敗死した(永享の乱)後、信濃佐久の大井氏の元で養育され、文安4年(1447年)に鎌倉公方に擁立された後鎌倉へ戻った(※2

いずれにせよ、幼少期に発生した鎌倉府の滅亡やその後の抗争において難を逃れていた事、そして父と敵対していた足利義教(室町幕府第6代将軍)が横死した後、政情不安定な関東において鎌倉府再興の機運が高まったのに伴い、新たな鎌倉公方として成氏が擁立された事、この2点は概ね間違いないものと見ていいだろう。


もっとも鎌倉公方に就任したとはいえ、成氏の周辺では依然として緊張関係が維持されたままであった。それも無理からぬ事で、成氏の補佐役たる関東管領・上杉憲忠はかつての永享の乱にて、父や兄を死に追いやった上杉憲実の子であり(※3)、成氏にしてみれば不倶戴天の敵ともいうべき存在でもあった。

また永享の乱を経て強大化した上杉氏(山内上杉氏)や、長尾氏・太田氏といった親上杉勢力に対し、小山氏や結城氏、小田氏などを始めとする北関東の名族らは上杉氏への対抗から鎌倉公方に肩入れしており、こうした両者間の歪な関係はやがて長尾・太田勢による成氏襲撃事件へと発展。江ノ島へ逃れた成氏は小山・千葉・宇都宮などの諸勢力(※4)の助けもあってこれを退ける(江ノ島合戦)が、戦後処理においても幕府による裁定は成氏の意向に沿うものとはいえず、対立の火種は依然燻ったままであった。

そして鎌倉公方と関東管領の対立が決定的となったのが、細川勝元の管領就任に伴う関東支配の方針転換である。勝元は鎌倉公方に対し「関東管領の取次なしに書状は受け取らない」と断固たる姿勢で臨んでおり、かねてより室町幕府からの影響を強く受けていた関東管領を通して、幕府が事実上関東の直接統治の意思を示した事が、ただでさえ政治的基盤の弱い成氏の立場をより一層、大きく揺るがす事となったのは言うまでもない。


※1 永享12年(1440年)、下総の結城氏朝持朝父子や鎌倉公方の遺臣らが、持氏の遺児を擁立し幕府に反旗を翻したもので、1年余りに亘る攻城戦の末に幕府方が勝利を収めるに至った)

※2 この説を採る場合、宝徳元年に鎌倉へ出立した持氏の遺児は成氏ではなく、その弟ではないかとの見解が示されている)

※3 とはいえ、憲忠の関東管領就任は父・憲実の望むところではなく、後に憲実が憲忠を義絶するという事態も発生している)

※4 この成氏方として参じた諸勢力の中には上杉氏の一部も含まれており、この事から合戦を主導したのはあくまで長尾・太田両氏であり、上杉氏の内部では意見の対立があったと見る向きもある)


享徳の乱

こうした政治的対立の深刻化は、やがて最悪の事態を誘発する事となる。享徳3年(1455年)の末、鎌倉の御所に呼び出された上杉憲忠は、成氏の命を受けた側近の多賀谷兄弟(結城家臣)によって謀殺され、さらに上杉氏家宰の長尾実景父子も討たれるという事件が発生した。

この事件を皮切りに、山内上杉氏の遺臣らやそれを後援する室町幕府と、成氏や鎌倉公方寄りの諸勢力との間での軍事衝突は最早不可避となり、関東はこの二大勢力によって東西に分裂、戦乱の渦に巻き込まれていく事となった。世に言う「享徳の乱」の勃発である。


上杉憲忠謀殺事件から間もない享徳4年(1456年)正月、成氏率いる軍勢は鎌倉を進発し、武蔵分倍河原にて上杉勢を散々に打ち負かし、さらに武蔵・下総・常陸の上杉方の拠点を次々と攻略していった。対する上杉方も、上杉房顕(憲忠の弟)を憲忠の後釜に据えて体制の立て直しを図るとともに、室町幕府からの支援も得て反攻に転じようとしていた。

享徳4年春、朝廷より幕府に成氏追討の綸旨・御旗が下され、これにより成氏は朝敵と看做される事となった。さらに下野において成氏方と上杉方が抗争を続ける中、6月には今川範忠率いる軍勢が鎌倉を占拠、さらに成氏の身内からも上杉方に与する者が現れたため、成氏は鎌倉を放棄し下総古河(現・茨城県古河市)を本拠地と定めた。

古賀やその一帯は、以前より鎌倉公方の経済的基盤となっていたのみならず、鎌倉公方寄りの諸勢力の拠点とも近かった事もあり、以降は「古河公方」として直臣らによる対上杉攻守網の形成に務め、上杉方も五十子陣や川越城などの攻守網を整備してこれに対抗し、両者の利根川を挟んでの拮抗した状況はしばらくの間続く事となる。


一方、室町幕府は先に派遣した今川勢に引き続き、足利政知(義政の異母兄)を新たな鎌倉公方として東下させたが、成氏方の強勢ぶりを前にして鎌倉入りを果たせず、伊豆堀越への逗留を余儀なくされた(堀越公方)。

幕府による成氏追討計画はその後も継続されたものの、関東に派遣されるはずだった斯波氏や小笠原氏は内紛鎮圧を理由としてこれを拒否、奥州でも国人間の紛争が深刻化。さらに鎌倉に留まっていた今川勢も駿河へ引き上げるなど、幕府主導による追討計画は実行に移される事のないまま、やがて応仁・文明の乱の勃発によって立ち消えとなってしまった。


関東「三十年戦争」とその余波

享徳の乱はその後、太田庄での勝利もあって当初は成氏方の優勢で戦局は推移していたが、やがて成氏方の岩松氏の御家騒動と、それに端を発した上杉方の下野への進出もあり、次第にではあるが上杉方も反撃の体勢を整えようとしていた。

文明3年(1471年)には、成氏自ら小山・結城勢と共に伊豆へ遠征し堀越公方を攻めたものの敗北、この遠征の失敗をきっかけとして成氏方にも綻びが生じるようになる。幕府からの帰順命令に小山氏らが応じた事、上杉方による古河への総攻撃もあり、成氏は一時古河を退去し千葉氏の元へと逃れるという事態にまで発展した。


もっとも上杉方にも古河入りに及ぶだけの余力は残されていなかったようで、翌年には古河への復帰を果たした成氏であったが、今度は上杉方に内紛の火の手が上がった。文明8年(1476年)、山内上杉氏家宰の後継争いに端を発し、成氏方と通じた長尾景春による反乱が勃発(長尾景春の乱)。太田道灌(扇谷上杉氏家宰)らの尽力もあって反乱は2年後に鎮圧されるも、その間に景春勢によって五十子陣が陥落し対古河公方攻守網が崩れるなど、上杉方の動揺は甚大なものがあった。

事ここに至り、文明10年(1478年)正月に成氏方と上杉方との間で和睦が成立、さらに古河公方と幕府間との和睦も文明14年(1483年)に成立するに至り、成氏は晴れて朝敵の汚名を雪ぐと共に、鎌倉公方としての地位を確立する事となった(都鄙合体)。

こうして、およそ30年にも及んだ享徳の乱はようやく終結を見たが、その後成氏に鎌倉へ戻る機会が巡る事はなかった。伊豆一国のみの支配に留められた堀越公方・足利政知が依然として成氏討伐を諦めていなかった事に加え、長尾景春の乱をきっかけに山内・扇谷の両上杉氏の力関係が崩れた事で、この両者による内紛(長享の乱)が新たに勃発し関東情勢が再び不安となった事も、成氏の鎌倉入りを阻む要因となったのである。


長享年間に入り嫡男の政氏に家督を譲った成氏は、享徳の乱の収束から10年余りを経た明応6年(1497年)に逝去。今際の際まで、政氏に対し鎌倉への帰還と関八州の回復を託した成氏であるが、最早関東における旧来の秩序の不安定化に歯止めがかかる事はなく、両上杉氏の内紛に絡んで古河公方も分裂、さらには伊勢宗瑞の関東進出も重なり、享徳の乱より始まる関東の戦国時代はその後も長きに亘って続く事となる。


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室町時代 室町幕府 鎌倉公方 古河公方

北条早雲伊勢宗瑞) 小弓公方

生 没:永享6年(1434年)/同10年(1438年)-明応6年9月30日(1497年10月25日)

別 名:万寿王、永寿王

官 位:従四位下、左兵衛督


生涯

生涯

幼少期~鎌倉公方時代

室町時代、関東にて勢力を有した武将の一人。第4代鎌倉公方足利持氏の子息の一人に当たる。

上記の通り生年や幼名が確定を見ていないのも含め、その幼少期については今もって謎の残る部分が多い。現時点で有力とされているのが、次の2つの説になる。

  1. 永享10年に生まれ、嘉吉元年(1441年)の結城合戦(※1)の後、上の兄たちとともに捕らえられながらも処断を免れ、その後紆余曲折を経て美濃守護である土岐氏の元で庇護されていたところ、宝徳元年(1449年)に鎌倉へ出立し鎌倉公方となった
  2. 永享6年に誕生、父・持氏と兄・義久が永享11年(1439年)に関東管領や室町幕府との戦いにて敗死した(永享の乱)後、信濃佐久の大井氏の元で養育され、文安4年(1447年)に鎌倉公方に擁立された後鎌倉へ戻った(※2

いずれにせよ、幼少期に発生した鎌倉府の滅亡やその後の抗争において難を逃れていた事、そして父と敵対していた足利義教(室町幕府第6代将軍)が横死した後、政情不安定な関東において鎌倉府再興の機運が高まったのに伴い、新たな鎌倉公方として成氏が擁立された事、この2点は概ね間違いないものと見ていいだろう。


もっとも鎌倉公方に就任したとはいえ、成氏の周辺では依然として緊張関係が維持されたままであった。それも無理からぬ事で、成氏の補佐役たる関東管領・上杉憲忠はかつての永享の乱にて、父や兄を死に追いやった上杉憲実の子であり(※3)、成氏にしてみれば不倶戴天の敵ともいうべき存在でもあった。

また永享の乱を経て強大化した上杉氏(山内上杉氏)や、長尾氏・太田氏といった親上杉勢力に対し、小山氏や結城氏、小田氏などを始めとする北関東の名族らは上杉氏への対抗から鎌倉公方に肩入れしており、こうした両者間の歪な関係はやがて長尾・太田勢による成氏襲撃事件へと発展。江ノ島へ逃れた成氏は小山・千葉・宇都宮などの諸勢力(※4)の助けもあってこれを退ける(江ノ島合戦)が、戦後処理においても幕府による裁定は成氏の意向に沿うものとはいえず、対立の火種は依然燻ったままであった。

そして鎌倉公方と関東管領の対立が決定的となったのが、細川勝元の管領就任に伴う関東支配の方針転換である。勝元は鎌倉公方に対し「関東管領の取次なしに書状は受け取らない」と断固たる姿勢で臨んでおり、かねてより室町幕府からの影響を強く受けていた関東管領を通して、幕府が事実上関東の直接統治の意思を示した事が、ただでさえ政治的基盤の弱い成氏の立場をより一層、大きく揺るがす事となったのは言うまでもない。


※1 永享12年(1440年)、下総の結城氏朝持朝父子や鎌倉公方の遺臣らが、持氏の遺児を擁立し幕府に反旗を翻したもので、1年余りに亘る攻城戦の末に幕府方が勝利を収めるに至った)

※2 この説を採る場合、宝徳元年に鎌倉へ出立した持氏の遺児は成氏ではなく、その弟ではないかとの見解が示されている)

※3 とはいえ、憲忠の関東管領就任は父・憲実の望むところではなく、後に憲実が憲忠を義絶するという事態も発生している)

※4 この成氏方として参じた諸勢力の中には上杉氏の一部も含まれており、この事から合戦を主導したのはあくまで長尾・太田両氏であり、上杉氏の内部では意見の対立があったと見る向きもある)


享徳の乱

こうした政治的対立の深刻化は、やがて最悪の事態を誘発する事となる。享徳3年(1455年)の末、鎌倉の御所に呼び出された上杉憲忠は、成氏の命を受けた側近の多賀谷兄弟(結城家臣)によって謀殺され、さらに上杉氏家宰の長尾実景父子も討たれるという事件が発生した。

この事件を皮切りに、山内上杉氏の遺臣らやそれを後援する室町幕府と、成氏や鎌倉公方寄りの諸勢力との間での軍事衝突は最早不可避となり、関東はこの二大勢力によって東西に分裂、戦乱の渦に巻き込まれていく事となった。世に言う「享徳の乱」の勃発である。


上杉憲忠謀殺事件から間もない享徳4年(1456年)正月、成氏率いる軍勢は鎌倉を進発し、武蔵分倍河原にて上杉勢を散々に打ち負かし、さらに武蔵・下総・常陸の上杉方の拠点を次々と攻略していった。対する上杉方も、上杉房顕(憲忠の弟)を憲忠の後釜に据えて体制の立て直しを図るとともに、室町幕府からの支援も得て反攻に転じようとしていた。

享徳4年春、朝廷より幕府に成氏追討の綸旨・御旗が下され、これにより成氏は朝敵と看做される事となった。さらに下野において成氏方と上杉方が抗争を続ける中、6月には今川範忠率いる軍勢が鎌倉を占拠、さらに成氏の身内からも上杉方に与する者が現れたため、成氏は鎌倉を放棄し下総古河(現・茨城県古河市)を本拠地と定めた。

古賀やその一帯は、以前より鎌倉公方の経済的基盤となっていたのみならず、鎌倉公方寄りの諸勢力の拠点とも近かった事もあり、以降は「古河公方」として直臣らによる対上杉攻守網の形成に務め、上杉方も五十子陣や川越城などの攻守網を整備してこれに対抗し、両者の利根川を挟んでの拮抗した状況はしばらくの間続く事となる。


一方、室町幕府は先に派遣した今川勢に引き続き、足利政知(義政の異母兄)を新たな鎌倉公方として東下させたが、成氏方の強勢ぶりを前にして鎌倉入りを果たせず、伊豆堀越への逗留を余儀なくされた(堀越公方)。

幕府による成氏追討計画はその後も継続されたものの、関東に派遣されるはずだった斯波氏や小笠原氏は内紛鎮圧を理由としてこれを拒否、奥州でも国人間の紛争が深刻化。さらに鎌倉に留まっていた今川勢も駿河へ引き上げるなど、幕府主導による追討計画は実行に移される事のないまま、やがて応仁・文明の乱の勃発によって立ち消えとなってしまった。


関東「三十年戦争」とその余波

享徳の乱はその後、太田庄での勝利もあって当初は成氏方の優勢で戦局は推移していたが、やがて成氏方の岩松氏の御家騒動と、それに端を発した上杉方の下野への進出もあり、次第にではあるが上杉方も反撃の体勢を整えようとしていた。

文明3年(1471年)には、成氏自ら小山・結城勢と共に伊豆へ遠征し堀越公方を攻めたものの敗北、この遠征の失敗をきっかけとして成氏方にも綻びが生じるようになる。幕府からの帰順命令に小山氏らが応じた事、上杉方による古河への総攻撃もあり、成氏は一時古河を退去し千葉氏の元へと逃れるという事態にまで発展した。


もっとも上杉方にも古河入りに及ぶだけの余力は残されていなかったようで、翌年には古河への復帰を果たした成氏であったが、今度は上杉方に内紛の火の手が上がった。文明8年(1476年)、山内上杉氏家宰の後継争いに端を発し、成氏方と通じた長尾景春による反乱が勃発(長尾景春の乱)。太田道灌(扇谷上杉氏家宰)らの尽力もあって反乱は2年後に鎮圧されるも、その間に景春勢によって五十子陣が陥落し対古河公方攻守網が崩れるなど、上杉方の動揺は甚大なものがあった。

事ここに至り、文明10年(1478年)正月に成氏方と上杉方との間で和睦が成立、さらに古河公方と幕府間との和睦も文明14年(1483年)に成立するに至り、成氏は晴れて朝敵の汚名を雪ぐと共に、鎌倉公方としての地位を確立する事となった(都鄙合体)。

こうして、およそ30年にも及んだ享徳の乱はようやく終結を見たが、その後成氏に鎌倉へ戻る機会が巡る事はなかった。伊豆一国のみの支配に留められた堀越公方・足利政知が依然として成氏討伐を諦めていなかった事に加え、長尾景春の乱をきっかけに山内・扇谷の両上杉氏の力関係が崩れた事で、この両者による内紛(長享の乱)が新たに勃発し関東情勢が再び不安となった事も、成氏の鎌倉入りを阻む要因となったのである。


長享年間に入り嫡男の政氏に家督を譲った成氏は、享徳の乱の収束から10年余りを経た明応6年(1497年)に逝去。今際の際まで、政氏に対し鎌倉への帰還と関八州の回復を託した成氏であるが、最早関東における旧来の秩序の不安定化に歯止めがかかる事はなく、両上杉氏の内紛に絡んで古河公方も分裂、さらには伊勢宗瑞の関東進出も重なり、享徳の乱より始まる関東の戦国時代はその後も長きに亘って続く事となる。


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足利成氏(メイン画像左側の人物)とは、室町期の武将・政治家。永享の乱以降の混乱を経て第5代鎌倉公方に擁立されるも、父と同様に関東管領上杉氏との対立から享徳の乱が勃発。鎌倉を追われながらも初代古河公方として上杉氏などとの抗争を繰り広げた。(1438年-1497年)
足利成氏(メイン画像左側の人物)とは、室町期の武将・政治家。永享の乱以降の混乱を経て第5代鎌倉公方に擁立されるも、父と同様に関東管領上杉氏との対立から享徳の乱が勃発。鎌倉を追われながらも初代古河公方として上杉氏などとの抗争を繰り広げた。(1438年-1497年)

生 没:永享6年(1434年)/同10年(1438年)-明応6年9月30日(1497年10月25日)

別 名:万寿王、永寿王

官 位:従四位下、左兵衛督


生涯

生涯

幼少期~鎌倉公方時代

室町時代、関東にて勢力を有した武将の一人。第4代鎌倉公方足利持氏の子息の一人に当たる。

上記の通り生年や幼名が確定を見ていないのも含め、その幼少期については今もって謎の残る部分が多い。現時点で有力とされているのが、次の2つの説になる。

  1. 永享10年に生まれ、嘉吉元年(1441年)の結城合戦(※1)の後、上の兄たちとともに捕らえられながらも処断を免れ、その後紆余曲折を経て美濃守護である土岐氏の元で庇護されていたところ、宝徳元年(1449年)に鎌倉へ出立し鎌倉公方となった
  2. 永享6年に誕生、父・持氏と兄・義久が永享11年(1439年)に関東管領や室町幕府との戦いにて敗死した(永享の乱)後、信濃佐久の大井氏の元で養育され、文安4年(1447年)に鎌倉公方に擁立された後鎌倉へ戻った(※2

いずれにせよ、幼少期に発生した鎌倉府の滅亡やその後の抗争において難を逃れていた事、そして父と敵対していた足利義教(室町幕府第6代将軍)が横死した後、政情不安定な関東において鎌倉府再興の機運が高まったのに伴い、新たな鎌倉公方として成氏が擁立された事、この2点は概ね間違いないものと見ていいだろう。


もっとも鎌倉公方に就任したとはいえ、成氏の周辺では依然として緊張関係が維持されたままであった。それも無理からぬ事で、成氏の補佐役たる関東管領・上杉憲忠はかつての永享の乱にて、父や兄を死に追いやった上杉憲実の子であり(※3)、成氏にしてみれば不倶戴天の敵ともいうべき存在でもあった。

また永享の乱を経て強大化した上杉氏(山内上杉氏)や、長尾氏・太田氏といった親上杉勢力に対し、小山氏や結城氏、小田氏などを始めとする北関東の名族らは上杉氏への対抗から鎌倉公方に肩入れしており、こうした両者間の歪な関係はやがて長尾・太田勢による成氏襲撃事件へと発展。江ノ島へ逃れた成氏は小山・千葉・宇都宮などの諸勢力(※4)の助けもあってこれを退ける(江ノ島合戦)が、戦後処理においても幕府による裁定は成氏の意向に沿うものとはいえず、対立の火種は依然燻ったままであった。

そして鎌倉公方と関東管領の対立が決定的となったのが、細川勝元の管領就任に伴う関東支配の方針転換である。勝元は鎌倉公方に対し「関東管領の取次なしに書状は受け取らない」と断固たる姿勢で臨んでおり、かねてより室町幕府からの影響を強く受けていた関東管領を通して、幕府が事実上関東の直接統治の意思を示した事が、ただでさえ政治的基盤の弱い成氏の立場をより一層、大きく揺るがす事となったのは言うまでもない。


※1 永享12年(1440年)、下総の結城氏朝持朝父子や鎌倉公方の遺臣らが、持氏の遺児を擁立し幕府に反旗を翻したもので、1年余りに亘る攻城戦の末に幕府方が勝利を収めるに至った)

※2 この説を採る場合、宝徳元年に鎌倉へ出立した持氏の遺児は成氏ではなく、その弟ではないかとの見解が示されている)

※3 とはいえ、憲忠の関東管領就任は父・憲実の望むところではなく、後に憲実が憲忠を義絶するという事態も発生している)

※4 この成氏方として参じた諸勢力の中には上杉氏の一部も含まれており、この事から合戦を主導したのはあくまで長尾・太田両氏であり、上杉氏の内部では意見の対立があったと見る向きもある)


享徳の乱

こうした政治的対立の深刻化は、やがて最悪の事態を誘発する事となる。享徳3年(1455年)の末、鎌倉の御所に呼び出された上杉憲忠は、成氏の命を受けた側近の多賀谷兄弟(結城家臣)によって謀殺され、さらに上杉氏家宰の長尾実景父子も討たれるという事件が発生した。

この事件を皮切りに、山内上杉氏の遺臣らやそれを後援する室町幕府と、成氏や鎌倉公方寄りの諸勢力との間での軍事衝突は最早不可避となり、関東はこの二大勢力によって東西に分裂、戦乱の渦に巻き込まれていく事となった。世に言う「享徳の乱」の勃発である。


上杉憲忠謀殺事件から間もない享徳4年(1456年)正月、成氏率いる軍勢は鎌倉を進発し、武蔵分倍河原にて上杉勢を散々に打ち負かし、さらに武蔵・下総・常陸の上杉方の拠点を次々と攻略していった。対する上杉方も、上杉房顕(憲忠の弟)を憲忠の後釜に据えて体制の立て直しを図るとともに、室町幕府からの支援も得て反攻に転じようとしていた。

享徳4年春、朝廷より幕府に成氏追討の綸旨・御旗が下され、これにより成氏は朝敵と看做される事となった。さらに下野において成氏方と上杉方が抗争を続ける中、6月には今川範忠率いる軍勢が鎌倉を占拠、さらに成氏の身内からも上杉方に与する者が現れたため、成氏は鎌倉を放棄し下総古河(現・茨城県古河市)を本拠地と定めた。

古賀やその一帯は、以前より鎌倉公方の経済的基盤となっていたのみならず、鎌倉公方寄りの諸勢力の拠点とも近かった事もあり、以降は「古河公方」として直臣らによる対上杉攻守網の形成に務め、上杉方も五十子陣や川越城などの攻守網を整備してこれに対抗し、両者の利根川を挟んでの拮抗した状況はしばらくの間続く事となる。


一方、室町幕府は先に派遣した今川勢に引き続き、足利政知(義政の異母兄)を新たな鎌倉公方として東下させたが、成氏方の強勢ぶりを前にして鎌倉入りを果たせず、伊豆堀越への逗留を余儀なくされた(堀越公方)。

幕府による成氏追討計画はその後も継続されたものの、関東に派遣されるはずだった斯波氏や小笠原氏は内紛鎮圧を理由としてこれを拒否、奥州でも国人間の紛争が深刻化。さらに鎌倉に留まっていた今川勢も駿河へ引き上げるなど、幕府主導による追討計画は実行に移される事のないまま、やがて応仁・文明の乱の勃発によって立ち消えとなってしまった。


関東「三十年戦争」とその余波

享徳の乱はその後、太田庄での勝利もあって当初は成氏方の優勢で戦局は推移していたが、やがて成氏方の岩松氏の御家騒動と、それに端を発した上杉方の下野への進出もあり、次第にではあるが上杉方も反撃の体勢を整えようとしていた。

文明3年(1471年)には、成氏自ら小山・結城勢と共に伊豆へ遠征し堀越公方を攻めたものの敗北、この遠征の失敗をきっかけとして成氏方にも綻びが生じるようになる。幕府からの帰順命令に小山氏らが応じた事、上杉方による古河への総攻撃もあり、成氏は一時古河を退去し千葉氏の元へと逃れるという事態にまで発展した。


もっとも上杉方にも古河入りに及ぶだけの余力は残されていなかったようで、翌年には古河への復帰を果たした成氏であったが、今度は上杉方に内紛の火の手が上がった。文明8年(1476年)、山内上杉氏家宰の後継争いに端を発し、成氏方と通じた長尾景春による反乱が勃発(長尾景春の乱)。太田道灌(扇谷上杉氏家宰)らの尽力もあって反乱は2年後に鎮圧されるも、その間に景春勢によって五十子陣が陥落し対古河公方攻守網が崩れるなど、上杉方の動揺は甚大なものがあった。

事ここに至り、文明10年(1478年)正月に成氏方と上杉方との間で和睦が成立、さらに古河公方と幕府間との和睦も文明14年(1483年)に成立するに至り、成氏は晴れて朝敵の汚名を雪ぐと共に、鎌倉公方としての地位を確立する事となった(都鄙合体)。

こうして、およそ30年にも及んだ享徳の乱はようやく終結を見たが、その後成氏に鎌倉へ戻る機会が巡る事はなかった。伊豆一国のみの支配に留められた堀越公方・足利政知が依然として成氏討伐を諦めていなかった事に加え、長尾景春の乱をきっかけに山内・扇谷の両上杉氏の力関係が崩れた事で、この両者による内紛(長享の乱)が新たに勃発し関東情勢が再び不安となった事も、成氏の鎌倉入りを阻む要因となったのである。


長享年間に入り嫡男の政氏に家督を譲った成氏は、享徳の乱の収束から10年余りを経た明応6年(1497年)に逝去。今際の際まで、政氏に対し鎌倉への帰還と関八州の回復を託した成氏であるが、最早関東における旧来の秩序の不安定化に歯止めがかかる事はなく、両上杉氏の内紛に絡んで古河公方も分裂、さらには伊勢宗瑞の関東進出も重なり、享徳の乱より始まる関東の戦国時代はその後も長きに亘って続く事となる。


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室町時代 室町幕府 鎌倉公方 古河公方

北条早雲伊勢宗瑞) 小弓公方

生 没:永享6年(1434年)/同10年(1438年)-明応6年9月30日(1497年10月25日)

別 名:万寿王、永寿王

官 位:従四位下、左兵衛督


生涯

生涯

幼少期~鎌倉公方時代

室町時代、関東にて勢力を有した武将の一人。第4代鎌倉公方足利持氏の子息の一人に当たる。

上記の通り生年や幼名が確定を見ていないのも含め、その幼少期については今もって謎の残る部分が多い。現時点で有力とされているのが、次の2つの説になる。

  1. 永享10年に生まれ、嘉吉元年(1441年)の結城合戦(※1)の後、上の兄たちとともに捕らえられながらも処断を免れ、その後紆余曲折を経て美濃守護である土岐氏の元で庇護されていたところ、宝徳元年(1449年)に鎌倉へ出立し鎌倉公方となった
  2. 永享6年に誕生、父・持氏と兄・義久が永享11年(1439年)に関東管領や室町幕府との戦いにて敗死した(永享の乱)後、信濃佐久の大井氏の元で養育され、文安4年(1447年)に鎌倉公方に擁立された後鎌倉へ戻った(※2

いずれにせよ、幼少期に発生した鎌倉府の滅亡やその後の抗争において難を逃れていた事、そして父と敵対していた足利義教(室町幕府第6代将軍)が横死した後、政情不安定な関東において鎌倉府再興の機運が高まったのに伴い、新たな鎌倉公方として成氏が擁立された事、この2点は概ね間違いないものと見ていいだろう。


もっとも鎌倉公方に就任したとはいえ、成氏の周辺では依然として緊張関係が維持されたままであった。それも無理からぬ事で、成氏の補佐役たる関東管領・上杉憲忠はかつての永享の乱にて、父や兄を死に追いやった上杉憲実の子であり(※3)、成氏にしてみれば不倶戴天の敵ともいうべき存在でもあった。

また永享の乱を経て強大化した上杉氏(山内上杉氏)や、長尾氏・太田氏といった親上杉勢力に対し、小山氏や結城氏、小田氏などを始めとする北関東の名族らは上杉氏への対抗から鎌倉公方に肩入れしており、こうした両者間の歪な関係はやがて長尾・太田勢による成氏襲撃事件へと発展。江ノ島へ逃れた成氏は小山・千葉・宇都宮などの諸勢力(※4)の助けもあってこれを退ける(江ノ島合戦)が、戦後処理においても幕府による裁定は成氏の意向に沿うものとはいえず、対立の火種は依然燻ったままであった。

そして鎌倉公方と関東管領の対立が決定的となったのが、細川勝元の管領就任に伴う関東支配の方針転換である。勝元は鎌倉公方に対し「関東管領の取次なしに書状は受け取らない」と断固たる姿勢で臨んでおり、かねてより室町幕府からの影響を強く受けていた関東管領を通して、幕府が事実上関東の直接統治の意思を示した事が、ただでさえ政治的基盤の弱い成氏の立場をより一層、大きく揺るがす事となったのは言うまでもない。


※1 永享12年(1440年)、下総の結城氏朝持朝父子や鎌倉公方の遺臣らが、持氏の遺児を擁立し幕府に反旗を翻したもので、1年余りに亘る攻城戦の末に幕府方が勝利を収めるに至った)

※2 この説を採る場合、宝徳元年に鎌倉へ出立した持氏の遺児は成氏ではなく、その弟ではないかとの見解が示されている)

※3 とはいえ、憲忠の関東管領就任は父・憲実の望むところではなく、後に憲実が憲忠を義絶するという事態も発生している)

※4 この成氏方として参じた諸勢力の中には上杉氏の一部も含まれており、この事から合戦を主導したのはあくまで長尾・太田両氏であり、上杉氏の内部では意見の対立があったと見る向きもある)


享徳の乱

こうした政治的対立の深刻化は、やがて最悪の事態を誘発する事となる。享徳3年(1455年)の末、鎌倉の御所に呼び出された上杉憲忠は、成氏の命を受けた側近の多賀谷兄弟(結城家臣)によって謀殺され、さらに上杉氏家宰の長尾実景父子も討たれるという事件が発生した。

この事件を皮切りに、山内上杉氏の遺臣らやそれを後援する室町幕府と、成氏や鎌倉公方寄りの諸勢力との間での軍事衝突は最早不可避となり、関東はこの二大勢力によって東西に分裂、戦乱の渦に巻き込まれていく事となった。世に言う「享徳の乱」の勃発である。


上杉憲忠謀殺事件から間もない享徳4年(1456年)正月、成氏率いる軍勢は鎌倉を進発し、武蔵分倍河原にて上杉勢を散々に打ち負かし、さらに武蔵・下総・常陸の上杉方の拠点を次々と攻略していった。対する上杉方も、上杉房顕(憲忠の弟)を憲忠の後釜に据えて体制の立て直しを図るとともに、室町幕府からの支援も得て反攻に転じようとしていた。

享徳4年春、朝廷より幕府に成氏追討の綸旨・御旗が下され、これにより成氏は朝敵と看做される事となった。さらに下野において成氏方と上杉方が抗争を続ける中、6月には今川範忠率いる軍勢が鎌倉を占拠、さらに成氏の身内からも上杉方に与する者が現れたため、成氏は鎌倉を放棄し下総古河(現・茨城県古河市)を本拠地と定めた。

古賀やその一帯は、以前より鎌倉公方の経済的基盤となっていたのみならず、鎌倉公方寄りの諸勢力の拠点とも近かった事もあり、以降は「古河公方」として直臣らによる対上杉攻守網の形成に務め、上杉方も五十子陣や川越城などの攻守網を整備してこれに対抗し、両者の利根川を挟んでの拮抗した状況はしばらくの間続く事となる。


一方、室町幕府は先に派遣した今川勢に引き続き、足利政知(義政の異母兄)を新たな鎌倉公方として東下させたが、成氏方の強勢ぶりを前にして鎌倉入りを果たせず、伊豆堀越への逗留を余儀なくされた(堀越公方)。

幕府による成氏追討計画はその後も継続されたものの、関東に派遣されるはずだった斯波氏や小笠原氏は内紛鎮圧を理由としてこれを拒否、奥州でも国人間の紛争が深刻化。さらに鎌倉に留まっていた今川勢も駿河へ引き上げるなど、幕府主導による追討計画は実行に移される事のないまま、やがて応仁・文明の乱の勃発によって立ち消えとなってしまった。


関東「三十年戦争」とその余波

享徳の乱はその後、太田庄での勝利もあって当初は成氏方の優勢で戦局は推移していたが、やがて成氏方の岩松氏の御家騒動と、それに端を発した上杉方の下野への進出もあり、次第にではあるが上杉方も反撃の体勢を整えようとしていた。

文明3年(1471年)には、成氏自ら小山・結城勢と共に伊豆へ遠征し堀越公方を攻めたものの敗北、この遠征の失敗をきっかけとして成氏方にも綻びが生じるようになる。幕府からの帰順命令に小山氏らが応じた事、上杉方による古河への総攻撃もあり、成氏は一時古河を退去し千葉氏の元へと逃れるという事態にまで発展した。


もっとも上杉方にも古河入りに及ぶだけの余力は残されていなかったようで、翌年には古河への復帰を果たした成氏であったが、今度は上杉方に内紛の火の手が上がった。文明8年(1476年)、山内上杉氏家宰の後継争いに端を発し、成氏方と通じた長尾景春による反乱が勃発(長尾景春の乱)。太田道灌(扇谷上杉氏家宰)らの尽力もあって反乱は2年後に鎮圧されるも、その間に景春勢によって五十子陣が陥落し対古河公方攻守網が崩れるなど、上杉方の動揺は甚大なものがあった。

事ここに至り、文明10年(1478年)正月に成氏方と上杉方との間で和睦が成立、さらに古河公方と幕府間との和睦も文明14年(1483年)に成立するに至り、成氏は晴れて朝敵の汚名を雪ぐと共に、鎌倉公方としての地位を確立する事となった(都鄙合体)。

こうして、およそ30年にも及んだ享徳の乱はようやく終結を見たが、その後成氏に鎌倉へ戻る機会が巡る事はなかった。伊豆一国のみの支配に留められた堀越公方・足利政知が依然として成氏討伐を諦めていなかった事に加え、長尾景春の乱をきっかけに山内・扇谷の両上杉氏の力関係が崩れた事で、この両者による内紛(長享の乱)が新たに勃発し関東情勢が再び不安となった事も、成氏の鎌倉入りを阻む要因となったのである。


長享年間に入り嫡男の政氏に家督を譲った成氏は、享徳の乱の収束から10年余りを経た明応6年(1497年)に逝去。今際の際まで、政氏に対し鎌倉への帰還と関八州の回復を託した成氏であるが、最早関東における旧来の秩序の不安定化に歯止めがかかる事はなく、両上杉氏の内紛に絡んで古河公方も分裂、さらには伊勢宗瑞の関東進出も重なり、享徳の乱より始まる関東の戦国時代はその後も長きに亘って続く事となる。


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