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概要編集

生没年:応永元年(1394年)~嘉吉元年(1441年)6月24日


室町幕府・第3代将軍足利義満の子として生まれる(同年に生まれた足利義嗣の誕生日が不明のため生まれた順番は四男か五男と言われているがはっきりしていない)。幼名は春寅。兄弟が多くいたため後継候補にはならず、10歳で出家して仏門に入り、青蓮院義円を名乗る。

義満の死後、同母の長兄・義持が将軍職を継ぎ、応永30年(1423年)には17歳の嫡男・義量に将軍職を譲り出家した後も、大御所として実権を握り続けていた。ところが応永32年(1425年)2月、もともと病弱だった義量が19歳の若さで急死。義持は後継を定めぬまま政務を執り続けていたが、応永35年(1428年)についに病に斃れてしまう。


将軍就任編集

病状が悪化してもなお、義持は「自身が後継を指名したところで周りが従わなければ意味がない」との理由から、後継者選定を渋っていた。とはいうものの、幕府としては将軍不在による政治空白を何としても防ぎたかった。そこで義持の側近の三宝院満済や管領・畠山満家ら群臣たちが評議を開き、義持の弟である梶井門跡義承・大覚寺門跡義昭・相国寺虎山永隆・義円の中から籤引きによって次期将軍を選ぶことが決定した。「籤引きで将軍を選ぶなんて…」と思われる諸氏もいるかもしれないが、当時と今では籤引きに対する感覚がかなり異なる(詳しくは後述)。また、後継を巡って幕府内で争いが発生するリスクを考えれば、賢明な判断であったとも言える。

改元が行われた同正長元年(1428年)、石清水八幡宮の神前において畠山満家により籤引きが行われ、義円が新将軍に選ばれた。籤引きによって将軍に指名された人物は、後にも先にも彼だけである。なお、義円は当初将軍への就任を何度か固辞しており、「兄義持の決め事を群臣が遵守する」ことと「自分のいうことを聞く」ことを条件に将軍就任を了承した。


還俗して「義宣」を名乗り、永享元年(1429年)に将軍宣下を受けたが、名が「世を忍ぶ」と同じ響きを持ち縁起が悪いとのことにより、さらに「義教」と改名する。

還俗して間もなく将軍に就任したことから、当初は「還俗将軍」などとも呼ばれた。


急な将軍就任だったこともあり、当初は坊主頭のままであった。これでは髷を結えず、烏帽子(元服した男子が被る帽子。つまり成人としてのシンボル)を被ることもできなかった。このままでは体裁が悪いことから、その時はとりあえず烏帽子を紐で括り付けて凌いだという。還俗して間もない時期の肖像画が残されており、そこにもしっかり紐が描かれている。


義教の政策編集

当初、義教は管領以下の重臣たちの意見を取り入れた政治を行っていたが、次第に将軍専制を志向する強硬な政治姿勢を見せるようになっていく。

永享6年(1434年)、幕府との対立姿勢を強める鎌倉公方(いわゆる室町幕府の地方政府の長)・足利持氏と古巣である比叡山延暦寺が通じているとの噂が流れたため、義教は軍勢を派遣し山門を囲ませる。これにより降伏した宗徒はしぶしぶ許したものの、首謀者4人は誘い出して殺害するに至った。その後、和平の使者として参上した僧侶が義教の命によって斬り捨てられ、これに抗議した僧侶24人が根本中堂に火をつけ焼身自殺する事態となった。

永享10年(1438年)、持氏の長子・賢王丸(足利義久)の元服を巡り、持氏と関東管領上杉憲実との対立が表面化、幕府が憲実に援軍を送ると持氏方にも幕府に寝返るものが表われ、持氏・義久父子は降伏も許されずに自害に追い込まれた。鎌倉府は持氏の末子・足利成氏古河公方として宝徳元年(1449年)に再興するまで一時消滅してしまう(永享の乱)。永享12年(1440年)3月に逃亡していた持氏の遺児の春王丸・安王丸兄弟が結城氏朝に担がれて叛乱を起こした(結城合戦)。翌年の嘉吉元年(1441年)4月に叛乱は鎮圧され、春王丸・安王丸は京への護送途中で斬られた。この時、春王丸は齢12、安王丸は齢11であった。持氏は将軍就任への野心を抱いており、義教のことを「還俗将軍」と呼んで馬鹿にしていた上、義教が遊覧に来た際も挨拶に訪れなかった。義教からすれば幕府の安泰を脅かす存在であると同時に、個人的に恨めしい相手であったと言える。

これとは別に義教は吉野の後南朝の平定、九州統治にも乗り出して成功させており、比叡山延暦寺の制圧、関東の攻略に次ぐ軍事的成功を成し遂げた将軍でもあった。


一方で、義教は永享4年(1432年)、兄・義持が停止したとの「勘合貿易」を再開させた。

また、この時期はかの「正長の土一揆」が発生しており、義教の頭を悩ませた。


偉大な父である義満にも成し遂げられなかった関東・吉野・九州の平定に成功したことで、幕府と将軍の権威は過去最高となった。

だが、義教の癇癪もちに由来する後述の「万人恐怖」体勢が災いし、民衆はおろか、皇族、公家、大名ですら絶対権力化を進める義教に恐怖を覚えるようになり、結果的に権力強化どころか義教の孤立化を加速させてしまった。


嘉吉の乱編集

嘉吉元年(1441年)6月23日播磨備前美作守護・赤松満祐は「結城合戦の慰労と鴨の子がたくさん生まれたので観に来てほしい」ことを理由に、自邸に義教を招いた。義教もこの時ばかりは機嫌が良かったが、猿楽を観覧中に突如屋敷に馬が放たれ門が一斉に閉じられる音がした。驚いた義教は「何事であるか」と叫ぶが、その直後に障子が開け放たれ、甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入、赤松氏随一の武士・安積行秀が義教の首を刎ねた。享年48(満47歳没)。このとき、義教の護衛や取り巻きは抵抗どころかさっさと逃げ出してしまったと伝えられるので、どれだけ人望がなかったか窺い知れる。この義教の死は「将軍犬死」と囁かれた。

満祐が嫡男・教康とともに悠々と領国に帰るなか、幕府は混乱を極め、管領・細川持之が義教の子・千也茶丸(後の7代将軍・足利義勝)を将軍に擁立して政局を安定させ、7月にようやく山名持豊(後の山名宗全)率いる討伐軍を出陣させた。

赤松氏討伐は1ヶ月あまりで終結したが、伏見宮貞成親王は日記『看聞御記』に「(義教の死を)自業自得である」と書き残している。

一守護大名による将軍の暗殺は将軍権力の弱体化を意味し、義教の遺児が年少であったことも守護大名の台頭を助長させた。結果として義教の死は、京都を焼け野原にした応仁の乱、そして守護大名の争いに端を発し、およそ100年にも渡る下克上の戦国時代の遠因となった。


人物編集

もともと将軍就任以前から学問のできる僧として知られていた。実際、153代天台座主となり「天台開闢以来の逸材」と呼ばれ、その後、一時大僧正も務めていたこともあり、いずれ名僧になるだろうと期待されていたほど。

将軍選考の籤引きにはたびたび八百長説が唱えられているが、これは義円の評判の良さを見込んだ畠山満家が籤引きの場に幕閣のなかで唯一立ちあったこともあり、形だけの籤引きをしたのではないかとの疑惑からきている。真相は定かではないが、そのような疑惑が持ち上がるほど義円の能力の高さは周知の事実であったとも考えられる。

詳細は後述の評価項で述べられるが、政治家としての手腕は確かなものであり、当時の室町幕府の政治課題を数多く解決している。


政治家としては中々に優秀であった一方で、その政治手法はワンマン体質に近く、周囲からたびたび反発を招くこともあった。ひどい癇癪もちとしても有名であり、自分の気に入らぬことがあれば些細なことでも処罰の対象となった。例えば…

  • 公卿の東坊城益長が儀式の最中、目の会った義教に対しにこっと笑顔を作った。だが義教は「将軍を笑った」と言って激怒し、益長の所領を没収した上、蟄居させた。
  • 闘鶏で人だかりができ、義教の行列が通れなかった。激怒した義教は闘鶏を禁止し、京都中のニワトリを洛外へ追放した。
  • 比叡山根本中堂の炎上に関する噂をした商人を斬首にした(自分が犯人だと言っているようなものでは…)。
  • 酌の仕方が下手だという理由で侍女を激しく殴り、無理矢理断髪した。
  • 自身に説教しようとした日蓮宗の僧日親に対し、灼熱の鍋を頭から被せた上、二度と喋ることができないよう舌を切った

他にも「献上された梅の枝が折れた」「料理がまずい」といった些細な理由で使用人を罰したことが当時の記録に数多く記されている。こういった類いの話は、大抵敵対勢力がネガキャンのために作り上げた創作であることが多いのだが、義教の場合いずれも実話なのがまた恐ろしい。

将軍在任中、処罰された者はわかっているだけでも80人に上ったとされている。記録に残っていないものを含めると、さらに数が膨れた可能性もある。

これが世に言う「万人恐怖」体勢であり、義教のキャラクターを(悪い意味で)決定づけてしまうものであった。また、曲がりなりにも政治家としては功績を挙げていたにもかかわらず、これらの自身の性格が災いし、皮肉にも総合的な評価をほぼプラマイゼロに定めてしまうこととなった。


評価編集

良くも悪くも室町幕府の「異端児」として評価されやすい。

義持時代に禁止された明との勘合貿易を復活させたことで幕府の財政状況を改善させ、内政では直属の協議機関である御前沙汰を設置したり、将軍の直接諮問方式を導入させるなど、管領の極度の増長を抑制した。

皇室の後継問題にも介入し、これを丸く収めた。

寺社勢力、特に比叡山延暦寺に対しては自身の古巣であるにもかかわらず、容赦の無い弾圧を行った。もっとも、当時の比叡山は相当な権力を持っており、度々強訴を行なっていた。義教以前では白河上皇の悩みの種であったし、後の世ではあの織田信長も相当手を焼いている。

また、先述の通り関東攻略や九州統治など、父義満ですら成し遂げられなかった偉業を地味に達成していたりする。

目的達成のための手段はともかく、少なくとも無能な人物ではないことは確かである。


元々成立の過程もあって権力分散型だった室町幕府を将軍一極型にまとめあげようとしており、それで反感を受けたことが嘉吉の乱の原因となっている。最終的にはこの分散型の機構こそが応仁の乱の遠因となっていることを考えると、先見の明があったと言ってもいいだろう。

その強行とも言える手腕には「籤引きで選ばれた」という自負もあったのだろう。現代人の視点からすると「能力ではなく籤で選ばれたことの何がすごいのか」という感覚かもしれないが、当時の感覚では「籤の結果は神の意志(神意)である」との思想が根底に存在し、今よりも遥かに重みのある行事(神事)とされていた。だから「八幡様の神意が将軍を選んだ」つまり「義教の行動は全て八幡様の意思に沿っている」という解釈が成立していたのである。なお、後の時代では「明治」の元号が籤によって決定しているが、これも先述の思想が関係している。

ただ、彼の強引な手法が周囲からの孤立と権力の過度な一極集中を招き、最終的に身を滅ぼす結果となったことは皮肉としか言い様がない。


比叡山と対立したことや、その悲惨な最期など信長と類似した点が多く見られ、「室町将軍版・信長」「プロトタイプ信長」、20世紀後半以降なら「室町のヒトラー」と呼ばれて比較されることも多い(ただ、信長は敵対勢力や裏切り者に関して結構甘かったり、本能寺の変でも多くの近臣が信長に殉じていたりする)。


ちなみに、父・義満と同様に富士山遊覧を行っており、和歌でも富士山に関する和歌を詠んでいることから、富士山信仰の立役者の一人としても評価されている。

関連タグ編集

室町時代 室町幕府

足利義勝:義教の長男で、室町幕府7代将軍。義教の死からわずか3年後に10歳で病死。

足利義政:義教の五男で8代将軍。政治家としては振るわなかったが、文化人としては東山文化を築くなど功績を残した。

足利政知:義教の四男だが庶子。足利成氏と鎌倉公方の座を巡って争う。子の義澄が10代将軍となって以降、幕府滅亡まで政知の子孫が将軍を輩出した。

足利義視:義教の十男。義政の子・義尚(正確には生母の日野富子)と8代将軍を巡り、応仁の乱勃発の一因となった。


暴君

織田信長:義教の時代から約140後の安土桃山時代の武将、政治家。何かと共通点が多い。

徳川家光後世リアル暴れん坊将軍

ネロ:古代ローマ時代の皇帝。暴君との呼び声高いが、統治時代初期は善政を敷いていたことでも有名。

ヒトラー:言うまでもなく20世紀最悪の独裁者。

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