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概要

生没年 永享6年(1434年)~嘉吉3年(1443年)
室町幕府・第6代征夷大将軍足利義教、側室・日野重子の間に生まれる。
千也茶丸と名づけられるが、重子の兄・日野義資が将軍・義教の勘気を受けて蟄居、さらには刺客を送られて殺害されてしまった。
これにより、千也茶丸は義教の正室・三条尹子の猶子として養育されることとなった。

嘉吉元年(1441年)、苛烈な政策と癇癪持ちの性格が恐れられた父・義教が幕府重臣・赤松満祐に討たれ、赤松一族が領国・播磨に逃亡する事件が起きる。
この間、幕府は混乱し討伐軍が派遣されるまで1ヶ月かかった。
反乱軍鎮圧は1ヶ月ほどで終わったが、幕政の混乱は鎮圧後も続いた。

嘉吉2年(1442年)、千也茶丸は将軍宣下を受け、後桃園天皇から「義勝」の名を賜る。
この間、幕政は細川持之らが主導、京の都で起きた土一揆に悩んだ幕府重臣はやむなく徳政令を発令、幕府の弱体化を世に知らしめることになった。

これらの混乱に管領・細川持之は病を得て辞任、後を継いだ畠山持国も、加賀守護・富樫家の内乱に介入したことにより、対立する加賀守護代・山川八郎が持国を襲撃すると宣言する事件が起こった。
事件は義勝の生母・日野重子が仲裁に入ったことにより終結するが、今度は義勝が赤痢にかかり、将軍就任後、わずか8か月、10歳でで亡くなってしまった。

人物

幕府の権威を復興した第6代将軍・足利義教と東山文化の担い手となった同母弟・足利義政(第8代将軍)の間にあるだけでなく、鎌倉、室町、江戸幕府と、歴代の征夷大将軍のなかで最も逸話のない人物である。
夭折した将軍ならば、室町幕府第5代将軍・足利義量、江戸幕府第7代将軍・徳川家継も知られているが、足利義量は病弱、大酒飲み、徳川家継は幼いながらも英明であるとの逸話が残されている。
また、鎌倉幕府の宮将軍も北条氏の傀儡ながら、和歌と学問に励んだと記録に残されている。
それゆえに資質を表すことも傀儡となることもなく死去した義勝は不運と言えよう。

関連タグ

室町時代 室町幕府 足利義教 足利義政

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