概要
室町時代中期~後期にかけての征夷大将軍。「万人恐怖」と称され嘉吉の変で落命した足利義教(第6代将軍)は父に当たる。
義政が将軍職を継いだ頃、室町幕府は相次ぐ将軍の死によって、有力大名による合議制に依拠せざるを得なくなっており、さらには相次ぐ飢饉や疫病、それに伴う土一揆の横行もあって、父・義教が目指した「幕府権力の回復」や「将軍親政の復活」はほぼほぼ頓挫した状態にあった。
義政の治世の前半は、正しくそうした父以来の悲願を引き継いだものといっていいものであり、自身の乳父で政所執事であった伊勢貞親を中心とした将軍側近勢力を基盤として、守護大名勢力と対抗。さらには不知行地還付政策の実行や、各守護大名の家督争いへの積極的な介入を通し、その勢力を削ぐ事で相対的に将軍権力の強化を目指した。
もっとも、こうした政策も必ずしも上手く行っていた訳ではなく、やがて守護大名勢力とのせめぎ合いは右腕でもあった伊勢貞親の失脚と、それに伴う将軍側近勢力の瓦解により、将軍親政の頓挫という結果を招く形となった。
また30代を目前にして、隠居を決意し実弟の足利義視に将軍職を譲ろうとした動きも、結果的には実子・義尚(後の第9代将軍)の誕生により、周辺勢力の介入などもあって後継者問題にまで発展。予てからの守護大名間の紛争への介入などとも絡んで「応仁・文明の乱」の勃発にも繋がった。
世間一般には、「政治に関心を失い、文化活動に逃避した趣味人」というイメージがとかく付きまとう人物でもあり、実際義政の後押しによって、彼の主導により造営された東山山荘(後の慈照寺(銀閣寺))を中心に「東山文化(室町文化)」が花開いたのもまた確かではある。
しかしこうした文化人としての活動に力を入れながらも、後述の通り息子の義尚の代になってからもなお政治への介入を継続しているのもまた事実であり、(その手腕や結果の是非はさておくとしても)必ずしも前述したようなイメージが適当であるとは言い難い事にも留意されたい。
生涯
将軍親政への道
第6代将軍・足利義教の庶子として生を受ける。幼名は三寅(後に三春)。彼が産まれた時点で既に次期将軍の座は長兄の義勝と定められており、後継者候補から外れた義政は慣例に倣って僧籍に入る事を運命付けられていた・・・はずであった。
ところが嘉吉元年(1441年)に発生した嘉吉の変で父・義教が横死、さらにその後を継いで第7代将軍となった兄・義勝もわずか2年で早逝した事により、義政は管領・畠山持国らの後見の元でわずか8歳にして「室町殿」、すなわち次期将軍として選出される事となった。
その後文安3年(1446年)には後花園天皇より「義成(よししげ)」の名を与えられ(「義政」と名を改めるのは享徳2年(1453年)になってからの事である)、さらに3年後には14歳にして元服・将軍宣下を受け正式に将軍職を継いだ。
こうして将軍に就任した義政であったが、この当時の彼自身や幕府を取り巻く状況は様々に厳しいものがあった。義持・義教政権を支え、諸守護の利害を調停して幕府の平穏を守っていた三宝院満済らは既に亡く、幕政を補佐すべき有能な人材を欠くという深刻な状況に悩まされていた(桜井英治『室町人の精神』)。
また、義教の側近として諸国守護と将軍との取次を行い、嘉吉の変を生き残っていた赤松満政も、山名氏との政争に破れた末に討滅の憂き目に遭っており、その死後の諸国守護取次は細川氏が独占、それまでも管領家として枢要な地位を占めていた細川氏のさらなる台頭に繋がる事ともなった(同『室町人の精神』)。
こんな時期に就任し、無能・無気力の代名詞とされたりもする青年将軍なので、当初から母の日野重子や守護たちの言いなりであった・・・かというと決してそうではない。
例えば宝徳3年(1451年)に尾張守護代人事に関連し、母の意見を聞かない義政に対して重子が出奔するという事件が起こっている。また享禄3年(1454年)、畠山政久(弥三郎)と畠山義就との間で畠山氏の家督争いが起こった時には、義政の意向に逆らい政久を支持した有力守護の山名持豊(山名宗全)が隠居に追い込まれ、義政の推した義就が家督を相続した。
この一連の動きは、同時に嘉吉の変にて山名氏に討滅されていた赤松氏の復興を狙ったものであるともいわれ、実際に隠居していた宗全を復権させて懐柔する一方で、赤松遺臣による後南朝からの神璽奪還(長禄の変)の功に免じて赤松政則を加賀北半国の守護職に就け、御家再興を認めるなど山名氏を牽制もしている。
こうした一連の動きの背景には、落首で「三魔」と揶揄された今参局(義政の乳母)・烏丸資任(日野重子の親戚)・有馬持家(もしくは息子の元家とも)といった義政側近らの介在が指摘されているが、将軍の側近が力を持つのは将軍親政期の特徴である。
すなわちこの頃の義政は、細川氏や畠山氏といった管領家や、山名氏などの有力大名と競って将軍権力の強大化を図っていたといえる(桜井英治『室町人の精神』)。また彼ら「三魔」とは別に、義政の乳父で政所執事の職にあった伊勢貞親や、相国寺蔭涼軒主として五山官寺の統轄や寺社との仲介を担っていた季瓊真蘂らも、将軍側近として厚い信任を受けていた。中でも貞親はその筆頭格として、「分一銭制度」の確立などを通じて財政再建に一定の成果を上げ、管領の細川勝元と権力を競った(同『室町人の精神』)。
また桜井によれば、義政は守護勢力が横領した寺社所領を返還する「不知行地還付策」を進め、その一環として守護などに横領された奉公衆たちの所領も返還させ、守護との対立を深めるとともに、父・義教に倣った強大な将軍権力を目指すようになっていく。
親政の行き詰まりと後継者問題
こうした将軍親政の推進はしかし、必ずしも義政の思惑通りに進んだ訳ではなかった。例えば前述した不知行地還付策は、越前守護の斯波義敏とその守護代である甲斐常治との間での抗争、さらには義敏に命じていた関東出兵の遅滞を招く事態となっていた。また義政は、幕府に対し反抗姿勢を示していた鎌倉公方・足利成氏(初代古河公方)の討伐に当たる一方、異母兄の政知(初代堀越公方)を後任の鎌倉公方として関東へ派遣するも、成氏方の勢いが盛んな事や、前述した斯波氏による関東出兵の遅滞などもあって鎌倉入りを果たせず、伊豆堀越に留め置かれる事を余儀なくされていた。
軍事問題以外でも、寛正2年(1461年)には大飢饉のため、幕府のお膝元である京都でも餓死者が相次ぐ中、義政は居所である花の御所の改築を行い後花園天皇から叱責されるなどもしている。
将軍親政の行き詰まりが徐々に表面化しつつある中、自身の後継ぎの不在もまた、義政の悩みの種でもあった。義政と正室・日野富子との間には長禄3年(1459年)に第一子を授かっていたが、その日のうちに夭折。その後も富子に男子が生まれない中、寛正5年(1464年)に義政は30を手前にして隠居を考え、当時出家していた弟の浄土寺義尋(足利義視)を還俗させ、細川勝元を後見人として将軍後継者の座に据えた。
しかし翌寛正6年(1465年)、長らく男子に恵まれなかった富子にも、二人目の嫡子(後の足利義尚)が誕生した。従来、この嫡子誕生によって義政・富子夫妻と義視との関係が悪化、さらに実子を将軍後継にと望む富子が、山名宗全の後ろ盾を得て義視の排除に動き、これが将軍後継問題に発展したと説明されてきた。
だがこの説明は必ずしも実態を反映したものとは言い難い。その辺りの詳細は応仁・文明の乱の記事を参照してもらう形となるが、早い話が「義視は義尚の成長するまでの中継ぎ」というのが、義政を始め当事者間での一致した見解ではないか、と見られている。また義政の若くしての隠居については、よく言われているような文化活動への逃避というよりも、「政治の実権をそのまま掌握し大御所政治を敷く」という目論見の方が大きかった、という見解も存在する。
だがこうした義政の思惑も、将軍側近勢力や守護大名勢力のせめぎ合いの前にはほぼほぼ意味をなさぬものであった。何せ義政の側近中の側近たる伊勢貞親ですら、義政による親政と自分たちの立場の維持を望んで、義視の将軍就任には反対の姿勢を取っていた事からも、如何に将軍後継を巡る各々の立場が一筋縄で行かないものかが推して知れよう。
そして文正元年(1466年)、行き詰まる義政の親政にトドメを刺す事態が発生する。将軍側近勢力が瓦解した文正の政変である。こちらも詳細は他記事を参照してもらう形となるが、細川・山名ら守護大名勢力の結束により貞親らが失脚に追い込まれた事で、片腕とも言うべき存在を喪失した義政の将軍親政は、ここに決定的な挫折を迎える事となったのである。
応仁・文明の乱
これを境に、幕政は再び諸大名による合議制によって主導される事となり(桜井英治『室町人の精神』)、義政の政治に対する意欲も次第に失われていく事となる。一方で将軍側近勢力という共通の敵が消失した諸大名は、細川勝元と山名宗全を中心に東軍・西軍の二派に分裂、10年以上に亘る応仁・文明の乱へと発展していく。
義政はこの乱に際し、当初は局外中立を保っており、両陣営に対して停戦命令を発していたものの、結局は東軍を率いる細川勝元に将軍旗と宗全討伐の命を与えるなど、中立な立場での調停者たり得なくなってしまった。やがて弟の義視が伊勢貞親の復帰や、義尚の将軍後継としての地位の確立などで立場を失うに至り、東軍を出奔し西軍に鞍替えするという事態が発生する。これを受けて義政はそれまでの和睦路線から一転、西軍を朝敵とみなしたり、朝倉孝景を始め西軍の有力武将らの寝返り工作を行うなど、強硬な姿勢に転じてしまった。
こうした義政の政治的な判断における優柔不断さ・無定見さは、これ以前の守護大名の家督争いへの介入などにおいても既に顕著に現れていたが、同様にこの大乱においても状況に流されるままに、自身の立場や姿勢を変化させていった事もまた、戦乱のさらなる長期化・深刻化に拍車をかける一因となったのである。
その一方で、義政の政治に対する意欲の低下は、この大乱を通してさらに深刻なものとなっていった。乱の発生直後には後花園上皇・後土御門天皇の父子が戦乱を避けて花の御所に動座する事態となった。義政は花の御所を改装して仮の御所とし、以来10年近くにわたって天皇と将軍が同居する状況が続く事となるが、その間義政は天皇・上皇らと度々宴会を開いていたともいわれる。
このような状況の中で、義政に代わって停戦工作を主導していたのは「押大臣(おしのおとど)」とも称された日野勝光であり、その勝光の没後は実妹で将軍御台所の富子がこれを引き継ぎ、停戦工作も含めた幕政の一切を取り仕切る事となる。
文明6年(1474)、勝元や宗全の相次ぐ死没を経て停戦工作が進んでいた頃、当時の興福寺別当の尋尊は日記にて「富子殿が天下の政治を見ている有様で、公方様(義政)はお酒、諸大名は笠懸(やぶさめの様な騎射の競技)に耽っており、まるで天下泰平のごとき有様であった」(『尋尊大僧正記』)と書き記しており、当時の幕府運営が傍目からどのように見られていたかが窺える。
東山文化のパトロン
このように政治的にはとかく挫折や失敗の多かった義政であるが、こと文化面では「東山文化(室町文化)」の主導者のひとりとして、歴史に名を残す事となった。
大乱終結後の文明13年(1481年)、富子や義尚との軋轢から当時の居所であった小川殿を退去していた義政は、翌年から東山山荘(東山殿、後の慈照寺(銀閣寺))の本格的な造営に着手、その途上の文明15年(1483年)には東山山荘に移り住んでここを終の棲家とした。
この東山山荘に文明18年(1486年)に建立された「東求堂」は、正に東山文化を表す代表的な建築の一つである。堂内に設けられた義政の書斎・同仁斎は、障子で外部と仕切り、四畳半に畳を敷き詰めて奥に床の間を配するという「書院造」の原型とも言える作りであり、すなわち後世の茶室や、近現代の和風建築に通じる大部分がここに誕生しているのである。
また絵画の面では、土佐光信や狩野正信を幕府や朝廷の御用絵師として登用した。両名ともそれぞれ土佐派、狩野派という画風を形成し、遥か江戸時代に至るまでの絵画界を主導している。さらに生け花も保護し、立阿弥を重用して自ら花の生け方に関する論争に参加し、現代生け花の基礎を築いたともいう。
この他にも能や茶道、連歌などといった多様な芸術もこの時期に発展を見せており、やがて戦乱の拡大に伴う文化人・知識人の地方への疎開もあって庶民層にも広く浸透していく事となり、今日まで続く日本的な文化の礎となったとも言える。
隠居と止まぬ政治介入
・・・と、このように後半生は文化活動に傾倒していったかに思われている義政であるが、意欲を低下させていたとはいっても、義政が政治の実権を完全に手放した訳では決してなかった。
大乱の最中の文明5年(1473年)に将軍職を息子の義尚に譲り、隠居の身となっていた義政であるが、その義尚が長じてから本格的な政務を開始した後も、前出の東山山荘の造営に伴う臨時課税を発布したり、前述した不知行地還付策を再開するなど、義政による政治への関与はなおも続いたのである(呉座勇一『応仁の乱』他)。
自身の理想とする芸術・文化活動を実現するためにはその元手が必要であり、義政としてはこれを確保するためにも、政治権力を完全に手放す事は出来なかったという事情も勿論あるが、少なくとも巷間で言われるような「政治が嫌になって」文化活動へ逃げた、という評が正確とは言い難いのは明らかであろう。
当然の事ながら、義政のこうした姿勢は幕政の決定機関の分裂と、義尚の将軍権力を抑圧するという状況を招くものに他ならない。この事はやがて父からの政治的な介入を疎んだ義尚や、義尚の後ろ盾として幕政の立て直しに当たっていた富子との不仲へと繋がっていき、義尚の出家未遂騒動などを経て文明14年(1482年)には最初の隠居を表明しているが、その後も河内における畠山政長・義就間での抗争において、当初義尚・富子が下した判断を義政が撤回させるといった事例などからも分かるように、形ばかりの隠居であるのは誰の目から見ても明らかであった。
こうした状況下にあって、幕府内でも義政寄りの奉行人の勢力と、義尚に親しい奉公衆(将軍の親衛隊)との対立が深刻化、遂には奉公衆によって一部の奉行人の殺害事件が発生するにまで至った。この事件を機に義政も一層政治への意欲を失ったようで、文明18年(1486年)に再度の隠居を表明した。
・・・かに見えたのだが、後の六角討伐において義尚が、義政に親しい者を除いて奉行人を鈎の陣(義尚の本陣)にまで同行させ政務を取らせた事などからも窺えるように、義政は二度の引退を表明してもなお実権の全てを手放す事なく、気まぐれに政治に口を出し続けたのである。この六角討伐では幕府軍による寺社本所領の押領も横行していた事から、却って被害を蒙った荘園領主らが義政の介入による救済を望むという、義尚にとっては皮肉な状況も発生している。
義政と義尚父子の政治的対立は結局、延徳元年(1489年)の義尚の陣没によって思わぬ幕切れを迎える事となる。後継者を失った義政は已む無く政務への復帰を決め、富子からの反対に遭いながらも幕政を代行する一方で、自身の亡き後の次期将軍として後事を託すべく、先の大乱の後美濃に逃れていた甥・足利義材(足利義視の嫡男)を養子に迎えてもいる。
この間、二度に亘って中風に倒れながらも奇跡的な回復を見せていた義政であるが、晩年造営に心血を注いだ東山山荘の完成を見届けぬまま、延徳2年1月7日(1490年1月27日)に55年の波乱に満ちた生涯を閉じた。没後、東山山荘は義政の菩提を弔うため禅寺に改められ、義政の院号にちなんで「慈照寺」と名付けられ現在に至っている。
創作での足利義政
- 『まんが日本史』:1983年放送のテレビアニメ。青野武が声を担当した。奢侈を戒めた臣下に領地没収をちらつかせて黙らせる暴君として描かれた。
- 『花の乱』:1994年放送のNHK大河ドラマ。青年期を市川新之助(七代目)、成人後を市川團十郎(十二代目)の父子がそれぞれ演じた。現実主義者な色彩の濃い妻・富子とは対照的に、兄の不慮の死や母からの疎外など幼少期の経験から、ある種の末法思想の持ち主として描かれており、物語が進むにつれてこうした主義の違いや後継者問題なども絡んで、富子との間に深い溝を生む事となる。
- 『ラヴヘブン』:2014年 - 2019年まで配信されていた、スマートフォン向け乙女パズルゲーム。同作における攻略キャラクターの一人として義政も登場しており、黒髪に赤いメッシュが入ったビジュアルと、厨二病な性格が特徴的なキャラとなっている。異世界を救うため、主人公によって召喚された。