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足利義政

あしかがよしまさ

室町幕府第8代将軍。
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室町幕府第8代征夷大将軍

生涯

第6代将軍足利義教の三男として生まれるが父の暗殺、兄・義勝の早世により宝徳元年(1449)14歳にして将軍職を継ぐ。この頃から、室町幕府の全盛期は終わり、幕政には不穏な出来事が続く。まず、義持・義教政権を支え、諸守護の利害を調停して幕府の平穏を守っていた黒衣の宰相と言えば、真言宗の高僧・三宝院満済である。満済の後継者となったのは義教の従弟でもある三宝院義賢であった。嘉吉の乱において、横暴で悪名が高かった山名持豊山名宗全)が戦功著しく、その強大化を恐れた万里小路時房らの公家が義賢に管領への仲介を頼んだことがあった。しかし義賢は何の仲介もせず、時房に叱責されると「持豊には何をやっても勝てないよ」と抗弁する有様であった。このように、当時の幕府は満済等に匹敵する人物を欠き、深刻な人材不足に悩まされるようになった(桜井英治『室町人の精神』)。また義勝の死後、義教の側近として有力であり、諸国守護と将軍との取次を行っていた赤松満政が攻め滅ぼされた。この後、諸国守護取次は細川家が独占し、細川勝元の台頭をもたらしたばかりか、戦国時代に至るまで細川京兆家の権力基盤となっていく(同『室町人の精神』)。

こんな時期に就任し、無能・無気力の代名詞とされたりもする青年将軍なので、当初から母の日野重子守護たちの言いなりであったか、というとそうでもない。宝徳三年(1451)に尾張守護代人事に関して、母の意見を聞かない義政に対して重子が出奔するという事件が起こっている。享禄3年(1454)に畠山氏の相続争いが起こった時には、義政に逆らった有力守護の山名持豊山名宗全)が隠居に追い込まれ、義政の推した畠山義就が家督を相続した。一連の動きの背景には落首で「三魔」と揶揄された今参局烏丸資任有馬持家といった義政の側近がいたようであるが、側近が力を持つのは将軍親政期の特徴である。すなわちこの頃の義政は、管領の細川家や畠山家と競って将軍権力の強大化を図っていたといえる(桜井英治『室町人の精神』)。桜井によれば、義政は守護勢力が横領した寺社所領を返還する不知行地還付策を進め、その一環として守護などに横領された奉公衆たちの所領も返還させ、守護との対立を深めるとともに義教に倣った強大な将軍権力を目指すようになっていく。隠居していた山名宗全を復権させて懐柔する一方で、赤松家に備前等の所領を与えて再興させ、山名家をけん制した。側近の筆頭は政所執事伊勢貞親であり、貞親は義政に信任されて管領細川勝元と権力を競った(同『室町人の精神』)。

長禄三年(1459)に御台所日野富子に生まれた長男がその日に死去した辺りから事情が変わる。寛正二年(1461)には大飢饉のため幕府のお膝元である京都でも餓死者が相次ぐ中、花の御所の改築を行い後花園天皇から叱責される等している。富子になおも男子が生まれない中、義政はまだ29歳の寛正五年(1464)に隠居を考え、出家していた弟を還俗させ足利義視として次期将軍とする。ここで寛正六年(1465)に富子が実子(後の足利義尚)を産んだからたまらない。義視と富子は守護たちを引き込んで対立を始める。義視陣営の盟主は細川勝元、富子陣営の盟主は山名宗全となった。この謎の隠居騒動については、義政は大御所として実権を握ろうとしたのだという説もあるが、収拾に動いた様子はない。トドメは文正元年(1466)、文正の政変にて伊勢貞親ら多くの側近を失ってしまったこと。貞親は義視が謀反を起こしたという噂を流して義尚後継を固めようとしたのだが、義視は勝元に無実を訴え、逆に讒訴の罪に問われた貞親らは出奔することになった。貞親は義政の右腕であり、彼を失った義政の親政は挫折して主導権は諸大名へと移ってしまった(桜井英治『室町人の精神』)。この後勝元(東軍と呼ばれた)と宗全(西軍と呼ばれた)は一気に武力対立に動き、翌応仁元年(1467)に応仁の乱が勃発、義政の停戦命令は無視されて京都は焼け野原になってしまった。

京都が焼け野原になったと言うと、織田信長の上洛まで京都は何もかも焼け跡の荒野となってしまって、一人残された義政が途方に暮れていた的なイメージをつい持ってしまう。しかし、京雀(京都の民衆)はもっとタフであったようだ。上京の武家町・公家町はいったんほぼ全焼するが、後に東軍が惣構えと呼ばれる一種の城壁で街を囲み、内裏御所を守る城砦都市として作り直す。一方西軍は、堀河の西に陣地と惣構えを構える。西軍の陣地であることから西陣と呼ばれ、後世にこの地は西陣織という織物で有名になる。下京の商人町は戦災を逃れ、応仁の乱のさなかにも商業都市として独自の繁栄を得ていった。そして郊外は両軍の戦闘やら兵糧を求める足軽の略奪やらで大混乱になる。

さて義政は、停戦が上手くいかないと見ると東軍に属し、伊勢貞親らの側近を復帰させて主導権回復を図った。義政に従って富子や貞親が東軍上層部を占めるようになると、東軍の旗頭であったはずの義視の立場は悪化して脱走と帰順を繰り返した挙句に西軍に寝返る。早くも当初の開戦理由など忘れられているようだ。東軍の総大将になった義政は、軍事作戦は勝元に任せて、自らは西軍諸将の寝返り工作を試みる。文明二年(1470)には西軍の主力たる大大名大内政弘の伯父大内教幸大友親繁等を東軍に引き抜いて大内氏の本国での攪乱を命じ、文明三年には勇将朝倉孝景を越前守護の地位と引き換えに寝返らせ、西軍に大打撃を与える(石田晴男『応仁・文明の乱』)。石田によれば、当時の西軍は南朝の後裔を迎えて天皇に推戴して正当性の確保を図ろうとするも諸将の反対で難航し、義視と諸将の対立も続いて東軍に降参を試みる将兵が相次いだらしい。もっとも義政が、それほど真面目に政治をしていたかについては、異論もありそうだ。文明六年(1474)、勝元や宗全が死んで和平が進んでいた頃のある僧の日記によれば「富子殿が天下の政治を見ている有様で、公方様(義政)はお酒、諸大名は笠懸(やぶさめの様な騎射の競技)に耽っており、まるで天下泰平のごとき有様であった(『尋尊大僧正記』)」等と嫌味を言われている。

応仁の乱沈静化後は、義尚に将軍を譲り隠居している。徳大寺公有の娘を父子で取り合ったり、義尚に忠誠を誓う奉公衆(将軍親衛隊)と義政よりの奉行衆(将軍側近のこと)が小競り合いを起こしたり、当時十代の我が子義尚からはウザがられた模様。京都の復興に尽力・・・はしていなかったようで、完全に京都が元の都の繁栄を取り戻したのは、義政が死んで10年も経た1500年ごろであったとされる。もっとも今さら幕府の御隠居が出しゃばらずとも、京都の民は彼ら自身で復興を進めていったともいえる。下京の商人たちは独自に発展を進め、西陣には機織り業が興る。郊外で戦闘を繰り返していた畠山氏に対しては地侍・農民が立ち上がって追放し平穏を取り戻す(山城国一揆)。幕府側では伊勢貞親の孫、貞陸が山城守護となって、一揆を支援している。義政は応仁の乱の後、もしくは親に先立って世を去った義尚を弔うために、五山送り火(大文字の送り火)を発案したという説がある(脇田晴子『室町時代』、五山送り火公式HP「点火の起源」)。義政には義政なりに戦火に散った人々について思うところがあったのかもしれない。

東山文化のパトロン

政治的にはほとんど事績を残せなかったが、文化面では東山文化の主導者のひとりであった。建築では彼の建てた慈照寺(銀閣寺)東求堂に注目できる。書院造の原型とされ、障子で外部と仕切り、四畳半を敷き詰めて奥に床の間を配する。すなわち現代の和風建築の大部分がここに誕生しているのである。絵師として土佐光信狩野正信を登用した。両名ともそれぞれ土佐派狩野派という画風を形成し、遥か江戸時代に至るまでの絵画界を主導している。生け花も保護し、立阿弥を重用して自ら花の生け方に関する論争に参加し、現代生け花の基礎を築いたともいう。

関連タグ

室町時代 無能
足利義教 日野富子 足利義尚
花の乱: NHK大河ドラマに登場。青年期は市川新之助、成人後は市川團十郎が演じた。
銀閣寺/銀閣 和風

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