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足利義稙

あしかがよしたね

足利義稙とは、室町幕府第10代将軍。8代将軍・足利義政の実弟・義視の子で、一度は細川政元らによるクーデターによって将軍の座を追われるが、後に大内義興の支援を得て将軍に復帰した。(1466年 - 1523年)
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生涯

応仁・文明の乱

文正元年7月30日(1466年9月9日)、8代将軍・足利義政の弟である足利義視の嫡男として誕生。弟に実相院義忠、慈照院周嘉、照禅院了玄がいる。義稙という名は2度目の将軍就任からしばらく後、永正10年(1513年)頃より名乗った名前であり、元服から最初の将軍就任時は義材(よしき)、越中公方(越中御所)を樹立した明応7年(1498年)頃から義尹(よしただ)と名乗っている。後述の通り都を追われ各地を転々とした経緯もあり、後世「流れ公方」などと称されることもある。

生まれてまもなく将軍家、それに畠山家の相続争いに端を発した応仁・文明の乱が発生。当初は父と共に東軍に属すが、後に西軍に身を投じる。しかし応仁・文明の乱は東軍の実質的勝利に終わり、義政の実子である足利義尚が9代将軍に就任。政争に敗れた義視と共に、12歳の時に美濃の土岐成頼の元へ身を寄せ、和睦後も元服するまではそのまま美濃に留まったと言われる。

元服・将軍就任

長享元年(1487年)、義尚の猶子として足利義材と名乗り元服。美濃在国のまま従五位下・左馬頭に叙位された。ところがその2年後の長享3年(1489年)、近江の六角高頼の討伐の最中に義尚が25歳で死去。義尚の死を知った義材は葬式参列のため、父や土岐成頼らと共に京都へ上洛するが、細川政元の反発もあって、結局は葬式終了後に京都に入る事となった。

更に政元は義材を将軍に推す事を反対し、義政の甥に当たる香厳院清晃(後の11代将軍・足利義澄)を後任の将軍に認めようと画策。しかし叔父の義政とその妻である日野富子が義材を支持したため、義材の将軍就任が確定する。

翌延徳2年(1490年)に義政が死去すると、義材は晴れて室町幕府第10代目征夷大将軍に就任。政元らとの禍根を残しつつも、父・義視との共同政治を打ち立てようとするが…

明応の政変

義材の政権はその樹立当初から内紛の火種を抱えていた。前述の通り将軍継嗣の問題で対立していた細川政元は言わずもがな、義政・義尚の在世時から幕政の中枢にあった伊勢貞宗もまた義視・義材親子と対立し、両名共に幕政から距離を置くようになっていた。そして将軍擁立の功労者であったはずの日野富子さえも、彼女の邸宅である小河邸や領地の処遇を巡って義視と対立し、その関係は急速に悪化する事となる。

将軍就任から1年後の延徳3年(1491年)に父・義視が死去すると、応仁・文明の乱で東軍に属して活躍した前任の管領・畠山政長と結んで独自の権力を確立、前将軍・義尚の死で中断されていた六角討伐を再開。この討伐で高頼の追放に成功し、更には明応2年(1493年)に政長の宿敵であった義就の子・義豊の討伐に打って出るなど、義尚と同様に幕府と将軍の権威の回復のため積極的に攻勢に打って出た。しかしこの度重なる外征と政長との結託が、政元の義材に対する反感と不信をより一層強める結果となってしまった。

そして同年4月に政元は日野富子、伊勢貞宗と義兄・赤松政則(政元の姉を妻に迎えていた)と共謀の上挙兵。京都にいる義材の一派らを殲滅すると共に、義豊討伐に出撃していた義材・政長を襲撃する。背後からの攻撃を受けた政長らは、領国である紀伊からの援軍も頼れぬままに河内・正覚寺城にて自害に追い込まれ、義材も将軍直臣の多くから見放された事で勝ち目無しと悟り、細川家臣・上原元秀に投降。これにより義材は一旦将軍の座から追われる事となった。

越中公方~将軍再任

京都に連れ戻された義材は龍安寺に幽閉され、その間には毒を盛られた事すらあったという。やがて小豆島へ流される事を知った義材は側近の助力を得て、政長の家臣であった越中の神保長誠の元へ脱出。そこで越中公方(放生津幕府)という亡命政権を樹立した。明応7年(1498年)には政元との和解が進展したと聞き、越前国の朝倉貞景の元へ移動。この時期に義尹に改名している。

しかし結局この和解は進展する事なく不調のまま終了。激怒した義尹は軍事力を背景とした上洛に方針を転換、朝倉や政長の子・尚順、さらに延暦寺・根来寺・高野山の僧兵の助力もあって一度は近江国まで到着するが、かつて自身が討伐した六角高頼らの逆襲と、政元の加勢もあって全滅。
義尹は父・義視がかつて応仁・文明の乱で頼った縁から周防・長門の大内氏の元へ逃亡し、当主・大内義興の庇護の元で雌伏の時を過ごす事となった。幕府側も豊後の大友氏を始め、大内氏と対立する諸勢力に働きかけて圧力をかけるも、義興は巧みな対応によりこれをしのいでいる。

再び事態が大きく動き出すのは永正4年(1507年)の事である。細川家中の家督相続の内紛から、政元が家臣の香西元長らの一派らに暗殺されたのをきっかけに、3人の養子たちによる家督争いが激化(永正の錯乱)。
やがて養子の一人である細川澄元が家督を継ぎ一旦は収束したかに見えたが、この混乱ぶりを好機と判断した義尹・義興は大内の軍事力を背景に翌永正5年(1508年)に京都へ帰還。やはり政元の養子で澄元側から寝返った細川高国もこれに助勢し、同年7月ついに将軍職へと返り咲いた。京都を追われた義澄一派とはその後も抗争が続くも、永正8年(1511年)に義澄が死去し、続く船岡山合戦も義尹軍の勝利に終わった事で、義尹の将軍職復帰が確定となった。

これにより管領・細川高国、守護・大内義興の軍事力を得て強固な幕府体制が完成したかに見えたが、かつてのように将軍の親政を志向する義稙の意思とは裏腹に、政権内部はおろか朝廷からも彼の意向が顧みられぬ事がしばしばであった。

将軍辞職~晩年

永正15年(1518年)、義稙を支援していた大内義興や畠山尚順が領国の危機を感じ相次いで領国へ帰還した辺りから、もう1人の支援者である細川高国との関係は急速に悪化する。一方、「両細川の乱」とも呼ばれる細川家の内紛はこの頃も継続したままであり、義興らの帰国によって義稙の軍事的な後ろ盾が失われた事で、高国と争っていた細川澄元の勢力が再び巻き返しを図ろうと動きを見せつつあった。
このような状況の中、永正17年(1520年)に高国が澄元との戦で大敗を喫したのをきっかけに、義稙は高国を見限って澄元に接近し、高国の影響力を排除し自ら幕政の実権を掌握しようと目論む。ところが一度は敗れたはずの高国の反攻によって澄元は打ち破られ、ここに至って義稙と高国の関係は完全に破綻を迎えるのである。

最早高国に始末されるのでは無いかと考えた義稙は、大永元年(1521年)に堺へと逃亡。出奔自体は将軍再任以降も度々見られた事ではあるのだが、折悪しくこの時朝廷では後柏原天皇の22年越しの即位式を控えており、義稙の出奔により挙行が危ぶまれる事態となってしまった。これに激怒した天皇は高国に対し、義稙に代わって予定通り式を挙行するよう厳命している。

この一件で、義稙は幕臣だけでなく朝廷からも見放される格好となり、高国は義稙に代わる12代目の将軍として、前将軍・義澄の遺児である義晴を迎え入れ、これにより再び義稙は将軍職を追われる事となった。それでも高国打倒は諦めておらず、当地で細川一門・細川澄賢や畠山義英(義就の孫、義豊の嫡男)を頼り反攻を画策するも、兵力が足りず断念を余儀なくされる。最終的には阿波国へ下向して澄元の子・晴元に助力を頼もうとするが、晴元が幼年のためにそれも叶わぬまま、大永3年4月9日(1523年5月23日)に当地にて57歳で病死した。

義稙の亡くなった時点で実子はいなかったものの、生前に義澄の実子であった義維を養子として迎えており、義稙の死後に今度は義維とその兄弟である義晴との間で将軍職を巡る争いが繰り広げられる事となる。さらにこの将軍職争いは息子たちの世代だけに留まらず、義稙から始まる系譜(義稙、義維、義栄)と義澄に端を発した系譜(義澄、義晴、義輝義昭)との間でその後も長きに渡って続けられ、皮肉にもかつての南朝北朝と同様の「両統迭立」の構図を再現する結果となるのである。

信長の野望

蒼天録PKのみに登場。最初のシナリオ(1495年)では大内家所属だが、後のシナリオでは足利家の大名として再登場している。

能力は何故か政治面だけが84と妙に高い。

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