生涯
応仁・文明の乱
文正元年7月30日(1466年9月9日)、8代将軍・足利義政の弟である足利義視の嫡男として誕生。弟に実相院義忠、慈照院周嘉、照禅院了玄がいる。義稙という名は2度目の将軍就任からしばらく後、永正10年(1513年)頃より名乗った名前であり、元服から最初の将軍就任時は義材(よしき)、越中公方(越中御所)を樹立した明応7年(1498年)頃から義尹(よしただ)と名乗っている。後述の通り都を追われ各地を転々とした経緯もあり、後世「流れ公方」などと称されることもある。
生まれてまもなく将軍家、それに畠山氏を始めとする有力守護家の家督相続争いに端を発した応仁・文明の乱が発生。当初は父と共に東軍に属すが、後に西軍に身を投じる。しかし応仁・文明の乱は東軍の実質的勝利に終わり、義政の実子である足利義尚が9代将軍に就任。政争に敗れた義視は最終的には義政から赦免されるも、完全な和解には至らず同じ西軍に属していた美濃の土岐成頼・斎藤妙椿の元へ身を寄せる事となる。
大乱終結の折、12歳であった義材もまた父に従って幼少期を過ごし、元服するまではそのまま美濃革手に留まったと言われる。
元服・将軍就任
長享元年(1487年)、足利義材と名乗り元服。伯母に当たる日野富子の働きかけもあり、同年には美濃在国のまま従五位下・左馬頭に叙位された。この頃9代将軍の座にあった、従兄の義尚には未だ嫡子がなく、そのため義材を義尚の猶子として迎えるという案も持ち上がったが、結局義尚の在世中に実行に移されることはなかった。
それから2年後の長享3年(1489年)、近江の六角高頼の討伐の最中に義尚改め義煕が25歳で死去。義煕の死を知った義材は葬式参列のため、父や土岐成頼らと共に、大乱終結以来12年ぶりに京都へ上洛を果たす事となる。しかしこの時細川政元の反発もあって、結局は葬式終了後に京都に入る事となった。
義煕の死により、再び将軍後継を巡る問題が持ち上がった。この時政元は義材を将軍に推す事を反対し、義政の兄・政知の次男である香厳院清晃(後の足利義澄、茶々丸の弟)を後任の将軍として推した。しかし義政と富子が義材を支持した事も追い風となり、次期将軍に義材が就任する事はほぼ確定を見た。
翌延徳2年(1490年)に義政が死去すると、義材は晴れて室町幕府第10代目征夷大将軍に就任。政元らとの禍根を残しつつも、父・義視との共同政治を打ち立てようとするが…
明応の政変
義材の政権はその樹立当初から内紛の火種を抱えていた。まず、義政・義尚の在世時から幕政の中枢にあった政所執事・伊勢貞宗は早くから義視・義材親子と対立、嫡男の貞陸に家督と執事職を譲り、幕政から距離を置くようになっていた。そして義材を将軍に擁立した功労者であったはずの日野富子さえも、彼女の邸宅である小河邸や領地の処遇を巡って義視と対立し、その関係は急速に悪化していく。
加えて、将軍就任から1年後の延徳3年(1491年)に父・義視が死去し、母の日野良子も前年に他界。後ろ盾でもあった両親を失い、幕府内にも確固たる権力基盤を有していなかった義材は、応仁・文明の乱以前から父・義視に仕えていた葉室光忠らを始めとする側近や、前管領・畠山政長を重用し独自の権力を確立していく事となる。
さらに同年には、前将軍・義尚の死で中断されていた六角討伐を再開。この討伐で高頼の追放に成功し、更には明応2年(1493年)に政長の宿敵であった義就の子・基家(義豊)の討伐に打って出るなど、義尚と同様に幕府と将軍の権威の回復、それに奉公衆を始めとする配下からの支持を確立すべく、積極的に攻勢に打って出た。
しかしこの度重なる外征と政長との結託は、将軍後継問題で対立関係にあった細川政元の、義材に対する反感と不信をより一層強める事にも繋がった。第二次六角討伐、そして畠山討伐共に政元は消極的な姿勢を示しており、後者に至っては畠山氏の内紛の収束、ひいては自身と競合する政長の地盤確立にも繋がるなど、政元にとっては甚だ迷惑なものがあったのである。
こうした幕府有力者との対立は、やがて前代未聞の事態を誘発する事となる。畠山討伐の最中であった明応2年4月、細川政元、日野富子、伊勢貞宗ら義材と対立していた有力者が共謀の上挙兵。京都にいる義材の一派らを殲滅すると共に、畠山討伐に出撃していた義材・政長を襲撃した。世に言う「明応の政変」である。
背後からの攻撃を受けた政長らは、領国である紀伊からの援軍も頼れぬままに河内・正覚寺城にて自害に追い込まれ、義材も将軍直臣の多くから見放された事で勝ち目無しと悟り、細川家臣・上原元秀に投降。これにより義材は一旦将軍の座から追われる事となった。
越中公方~将軍再任
京都に連れ戻された義材は龍安寺に幽閉され、その間には毒を盛られた事すらあったという。やがて小豆島へ流される事を知った義材は側近の助力を得て、政長の家臣であった越中の神保長誠の元へ脱出。放生津(富山県射水市新湊)で越中公方(放生津幕府)という亡命政権を樹立した。明応7年(1498年)には政元との和解が進展したと聞き、越前国の朝倉貞景の元へ移動。この時期に義尹に改名している。
しかし結局この和解は進展する事なく不調のまま終了。激怒した義尹は軍事力を背景とした上洛に方針を転換、朝倉勢や政長の子・尚順、さらに延暦寺・根来寺・高野山の僧兵の助力もあって一度は近江国まで到着するが、かつて自身が討伐した六角高頼らの逆襲と、政元の加勢もあって全滅。
義尹は父・義視がかつて応仁・文明の乱で大内政弘を頼った縁から周防・長門へ逃亡し、政弘の子・義興の庇護の元で雌伏の時を過ごす事となった。幕府側も豊後の大友氏を始め、大内氏と対立する諸勢力に働きかけて圧力をかけるも、義興は巧みな対応によりこれをしのいでいる。
再び事態が大きく動き出すのは永正4年(1507年)の事である。細川家中の家督相続の内紛から、政元が家臣の香西元長らの一派らに暗殺されたのをきっかけに、3人の養子たちによる家督争いが激化(永正の錯乱)。
やがて養子の一人である細川澄元が家督を継ぎ一旦は収束したかに見えたが、この混乱ぶりを好機と判断した義尹・義興は大内の軍事力を背景に翌永正5年(1508年)に京都へ帰還。やはり政元の養子で澄元側から寝返った細川高国もこれに助勢し、同年7月ついに将軍職へと返り咲いた。京都を追われた義澄一派とはその後も抗争が続くも、永正8年(1511年)に義澄が死去し、続く船岡山合戦も義尹軍の勝利に終わった事で、義尹の将軍職復帰が確定となった。
また、永正6年(1509年)の10月深夜に和田円珍含む義澄が放った刺客団に襲われるが、刀傷を負いつつも撃退している。
これにより管領・細川高国、守護・大内義興の軍事力を得て強固な幕府体制が完成したかに見えたが、かつてのように将軍の親政を志向する義稙の意思とは裏腹に、政権内部はおろか朝廷からも彼の意向が顧みられぬ事がしばしばであった。
将軍辞職~晩年
永正15年(1518年)、義稙を支援していた大内義興や畠山尚順が領国の危機を感じ相次いで領国へ帰還した辺りから、もう1人の支援者である細川高国との関係は急速に悪化する。一方、「両細川の乱」とも呼ばれる細川家の内紛はこの頃も継続したままであり、義興らの帰国によって義稙の軍事的な後ろ盾が失われた事で、高国と争っていた細川澄元の勢力が再び巻き返しを図ろうと動きを見せつつあった。
このような状況の中、永正17年(1520年)に高国が澄元との戦で大敗を喫したのをきっかけに、義稙は高国を見限って澄元に接近し、高国の影響力を排除し自ら幕政の実権を掌握しようと目論む。ところが一度は敗れたはずの高国の反攻によって澄元は打ち破られ、ここに至って義稙と高国の関係は完全に破綻を迎えるのである。
最早高国に始末されるのでは無いかと考えた義稙は、大永元年(1521年)に堺へと逃亡。出奔自体は将軍再任以降も度々見られた事ではあるのだが、折悪しくこの時朝廷では後柏原天皇の22年越しの即位式を控えており、義稙の出奔により挙行が危ぶまれる事態となってしまった。これに激怒した天皇は高国に対し、義稙に代わって予定通り式を挙行するよう厳命している。
この一件で、義稙は幕臣だけでなく朝廷からも見放される格好となり、高国は義稙に代わる12代目の将軍として、前将軍・義澄の遺児である義晴を迎え入れ、これにより再び義稙は将軍職を追われる事となった。それでも高国打倒は諦めておらず、当地で細川一門・細川澄賢や畠山義英(義就の孫、義豊の嫡男)を頼り反攻を画策するも、兵力が足りず断念を余儀なくされる。最終的には阿波国へ下向して澄元の子・六郎(晴元)に助力を頼もうとするが、六郎が幼年のためにそれも叶わぬまま、大永3年4月9日(1523年5月23日)に当地にて57歳で病死した。
義稙の亡くなった時点で実子はいなかったものの、生前に義澄の実子であった義維を養子として迎えており、義稙の死後に今度は義維とその兄弟である義晴との間で将軍職を巡る争いが繰り広げられる事となる。さらにこの将軍職争いは息子たちの世代だけに留まらず、義稙から始まる系譜(義稙、義維、義栄)と義澄に端を発した系譜(義澄、義晴、義輝、義昭)との間でその後も長きに渡って続けられ、皮肉にもかつての南朝北朝と同様の「両統迭立」の構図を再現する結果となるのである。
信長の野望
蒼天録PKのみに登場。最初のシナリオ(1495年)では大内家所属だが、後のシナリオでは足利家の大名として再登場している。
能力は何故か政治面だけが84と妙に高い。