概要
「足利高氏」とは、室町幕府初代将軍・「足利尊氏」が鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけてが名乗った名前である。なお、読みは同じ「たかうじ」である。
鎌倉幕府内において、足利氏は代々「源氏嫡流」として北条氏から厚く遇され、高氏の父も北条氏得宗であり、第9代執権でもある北条貞時から「貞」の諱を与えられて「貞氏」と名乗っただけでなく、正室も金沢流北条氏第3代当主・北条顕時の娘(釈迦堂殿)を与えられている。
貞氏の長男もまた釈迦堂殿の子で、この長男が元服する際、貞氏は従来であれば、第14代執権・北条高時の「高」と足利氏の通字「氏」を合わせて「高氏」とするところを、北条氏との良好な関係、鎌倉幕府及び得宗家への忠節を認められて「清和源氏」の通字「義」を合わせて「高義」と名乗らせている。
一方で、高時の「高」と足利氏の通字「氏」を合わせた「高氏」の名は貞氏の次男・又太郎が名乗ることとなり、高義の死後、足利家の家督は彼が継ぐこととなった。高氏は赤橋流北条氏第3代当主・北条久時の娘であり第16代執権・北条守時の妹である登子を与えられたが、高氏の次男・千寿王(後の足利義詮)は正室の子ということもあって、わずか3歳ながら高氏の後継者として後に起きる鎌倉攻略の総大将として立てられることとなった。
「高氏」という名は鎌倉幕府追討まで高氏が名乗ったものであったが、隠岐に流されていた後醍醐天皇が京の都に帰り政務に取りかかると、高氏には恩賞の一つとして天皇の諱「尊治(たかはる)」から「尊」を与えられ、元弘3年/正慶2年(1333年)8月からは「尊氏」と名乗るようになった。
また、貞氏の三男(幼名不詳)もまた、元服の際、高時の「高」を与えられて「高国」を名乗っていたが、兄・高氏が鎌倉幕府に反旗を翻すと、みずから清和源氏嫡流を表す「忠義」後に「直義」に改名してしまった。