佐久間折檻状
さくませっかんじょう
佐久間信盛は、織田信長が幼少時代の頃から仕え続け、やがて信長が戦国武将として名を馳せる様になると家臣団の筆頭格として扱われ、「退き佐久間」(殿軍の指揮を得意としたことに由来)と称される程の重臣となった。
一方では三方ヶ原の戦いにおいて武田信玄率いる武田軍の猛攻を前に勝ち目なしと見て、本来の役目であった徳川軍の後援という役目も果たす事なく、ほとんど戦わずに撤退したり、小谷城の戦いから一乗谷の戦いへと続く対浅井、朝倉両氏戦では、尖兵の役目を与えられたにもかかわらず、総大将の信長よりも出遅れてしまう(さらには後日、それを信長に咎められた折には信長に面と向かって口答えをしてしまい、一触即発の事態を招いた)など、失態や信長に対する不敬も目立ち、次第に信長からの信用は失われていく事となる。
それでも、天正4年(1576年)には信長にとって重要な一戦であった本願寺勢との総決戦である石山合戦の総大将を任され、それに伴い三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊といった7ヶ国分の戦力を傘下に与えられ、一時は織田傘下の中でも最大の軍閥を得る事となったが、ここでも積極的に攻勢に出ず、戦況は拮抗してしまう。
これに痺れを切らした信長は天正8年(1580年)、自ら朝廷に働きかけて本願寺と和睦して、10年に渡る石山合戦はようやく終結となった。
しかし、これにより遂に信長から「無能」の烙印を押される事となった信盛は、天正8年(1580年)8月12日。合計19か条にわたる直筆の折檻状を突き付けられる事となってしまった。
ちなみにこの時代、右筆という手紙の代筆を主に行う役職が存在していた。どの程度右筆に任せ、どこからは自著するかは各大名により異なったが、信長は「右筆衆」という専門集団まで抱えている。これに自筆の花押を押すことで自筆書類と見做すのが習いであった。にもかかわらず、自ら筆を執っているあたり怒りのほどが知れようというものである。
なお、佐久間軍記によれば何者かの讒言があったのではないかとの見方が存在しており、一部資料には「明智光秀の讒言である」と名指しされているが、いずれも後世に成立した書物であり、出典も明記されていない。
信長から突き付けられた折檻状には以下の様に記文されていた。
一、父子五ヶ年在城の内に、善悪の働きこれなきの段、世間の不審余儀なく、我も思ひあたり、言葉にも述べがたき事。
一、此の心持の推量、大坂大敵と存じ、武篇にも構へず、調儀・調略の道にも立ち入らず、たゞ、居城の取出を丈夫にかまへ、幾年も送り候へば、彼の相手、長袖の事に候間、行くは、信長威光を以て、退くべく候条、さて、遠慮を加へ候か。但し、武者道の儀は、各別たるべし。か様の折節、勝ちまけを分別せしめ、一戦を遂ぐれば、信長のため、且つは父子のため、諸卒苦労をも遁れ、誠に本意たるべきに、一篇に存じ詰むる事、分別もなく、未練疑ひなき事。
一、丹波国、日向守働き、天下の面目をほどこし候。次に、羽柴藤吉郎、数ヶ国比類なし。然うして、池田勝三郎小身といひ、程なく花熊申し付け、是れ又、天下の覚えを取る。爰を以て我が心を発し、一廉の働きこれあるべき事。
一、柴田修理亮、右の働き聞き及び、一国を存知ながら、天下の取沙汰迷惑に付きて、此の春、賀州に至りて、一国平均に申し付くる事。
一、武篇道ふがひなきにおいては、属託を以て、調略をも仕り、相たらはぬ所をば、我等にきかせ、相済ますのところ、五ヶ年一度も申し越さざる儀、由断、曲事の事。
一、やす田の儀、先書注進、彼の一揆攻め崩すにおいては、残る小城ども大略退散致すべきの由、紙面に載せ、父子連判候。然るところ、一旦の届けこれなく、送り遣はす事、手前の迷惑これを遁るべしと、事を左右に寄せ、彼是、存分申すやの事。
一、信長家中にては、進退各別に候か。三川にも与力、尾張にも与力、近江にも与力、大和にも与力、河内にも与力、和泉にも与力、根来寺衆申し付け候へば、紀州にも与力、少分の者どもに候へども、七ヶ国の与力、其の上、自分の人数相加へ、働くにおいては、何たる一戦を遂げ候とも、さのみ越度を取るべからざるの事。
一、小河かり屋跡職申し付け候ところ、先々より人数もこれあるべしと、思ひ候ところ、其の廉もなく、剰へ、先方の者どもをば、多分に追ひ出だし、然りといへども、其の跡目を求め置き候へば、各同前の事候に、一人も拘へず候時は、蔵納とりこみ、金銀になし候事、言語道断の題目の事。
一、山崎申し付け候に、信長詞をもかけ候者ども、程なく追失せ候儀、是れも最前の如く、小河かりやの取り扱い紛れなき事。
一、先々より自分に拘へ置き候者どもに加増も仕り、似相に与力をも相付け、新季に侍をも拘ふるにおいては、是れ程越度はあるまじく候に、しはきたくはへばかりを本とするによつて、今度、一天下の面目失い候儀、唐土・高麗・南蛮までも、其の隠れあるまじきの事。
一、先年、朝倉破軍の刻、見合せ、曲事と申すところ、迷惑と存ぜず、結句、身ふいちやうを申し、剰へ、座敷を立ち破る事、時にあたつて、信長面目を失ふ。その口程もなく、永々此の面にこれあり、比興の働き、前代未聞の事。
一、甚九郎覚悟の条々、書き並べ候へば、筆にも墨にも述べがたき事。
一、大まはしに、つもり候へば、第一、欲ふかく、気むさく、よき人をも拘へず、其の上、油断の様に取沙汰候へば、畢竟する所は、父子とも武篇道たらはず候によつて、かくの如き事。
一、与力を専とし、余人の取次にも構ひ候時は、是れを以て、軍役を勤め、自分の侍相拘へず、領中を徒になし、比興を構へ候事。
一、右衛門与力・被官等に至るまで、斟酌候の事、たゞ別条にてこれなし。其の身、分別に自慢し、うつくしげなるふりをして、綿の中にしまはりをたてたる上を、さぐる様なるこはき扱ひに付いて、かくの如き事。
一、信長代になり、三十年奉公を遂ぐるの内に、佐久間右衛門、比類なき働きと申し鳴らし候儀、一度もこれあるまじき事。
一、一世の内、勝利を失はざるの処、先年、遠江へ人数遣し候刻、互に勝負ありつる習、紛れなく候。然りといふとも、家康使をもこれある条、をくれの上にも、兄弟を討死させ、又は、然るべき内の者打死させ候へば、その身、時の仕合に依て遁れ候かと、人も不審を立つべきに、一人も殺さず、剰へ、平手を捨て殺し、世にありげなる面をむけ候儀、爰を以て、条々無分別の通り、紛れあるべからずの事。
一、此の上は、いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ、一度帰参致し、又は討死する物かの事。
一、父子かしらをこそげ、高野の栖を遂げ、連々を以て、赦免然るべきやの事。
右、数年の内、一廉の働きなき者、未練の子細、今度、保田において思ひ当り候。抑も天下を申しつくる信長に口答申す輩、前代に始り候条、爰を以て、当末二ヶ条を致すべし。請けなきにおいては、二度天下の赦免これあるまじきものなり。
現代語訳
現代人の言葉で訳すとこういう事である……
*
佐久間親子は5年も天王寺砦で戦の指揮を執っていたのに結局手柄らしい手柄は何も上げられなかった。皆、それを不審に思ってるぞ。正直俺(信長)自身も思い当たることがあるので、何も言えないんだよ。
お前の事だから「本願寺は強敵だから」とか考えて、戦う事も説得や調略する事もせずに、ただただ砦の守りを固めているだけで数年ほったらかしにしとけば、相手はしょせん坊主だし、そのうち俺(信長)の威光に屈して退去させることができるとでも考えてたんじゃないのか?だけどな。武士道とはそんなもんじゃねぇんだよ。こういう時にお前らが勝敗を見極めて戦っていれば、俺(信長)にとっても、お前ら親子にとっても良いことだったし、他の将兵だって余計な苦労をしなくて済んだんだよ。それなのに一つの作戦に拘ったお前らは思慮が浅いし、命を惜しんだだけじゃないかって疑いようがないわ。
それに引き換え、丹波国平定における明智光秀の働きは、日本中から褒められたよ。羽柴秀吉だって数ヶ国を攻略してこの功績もほかに並ぶものがないよ。池田恒興は率いる兵は少なかったけど、荒木方の花隈城を攻め落としたりして、やはり皆からは賞賛されてんだ。お前らだって他の連中の活躍を聞いて発奮し、もっとも任務に励むべきだったんだ。
それから柴田勝家は、他の同僚たちの活躍を聞いたら、もう越前一国任されてる身分なのに「手柄を立てなくては皆に顔向けできない」って考えて、この春に加賀一国を平定してたぞ。
本願寺の連中と戦える自信がないなら、与力の国人衆に調略を任せたり、それでも上手くいかないなら俺(信長)達に相談すればよかったのに、5年の間一度も相談に来なかったじゃねぇか。油断であり怠慢だろうが。
与力の保田知宗が送ってきた手紙には「本願寺を制圧すれば他の小城の一揆勢は退散する」と書いてあって、お前ら親子の花押も押してあったな? だけど、おまえたちは今までこんな報告はしてこなかっただろ。手紙を送ってきたのは、おまえたち佐久間親子があれこれ言い訳して保身を図るためだったんじゃねぇか?
うちの家臣団の中で、お前は特別な待遇を受けているよな? 三河からも与力、尾張からも与力、近江からも与力、大和からも与力、河内からも与力、和泉からも与力を出したし、ああそういや根来衆もいるから、紀伊からも与力だな。確かに多数の軍勢を動員できる大身はその中にはいないけどよ、七ヶ国の与力と佐久間家の将兵を結集すれば、どんな戦をしても敵に後れを取ることはなかっただろ?
粛清した水野信元の旧領である三河刈谷の土地を預けた事だし、水野家の家臣団を取り込んで佐久間家の将兵が増えただろうとも思ってたよ。でも、おまえは水野家の旧臣たちを雇うするどころか追放してしまったそうじゃないか。だったらせめて浮いた人件費使って新しい家臣でも雇えばいいのに、それもしてない。そうやってケチった金をコソコソと腹に溜め込んでるなんて言語道断だわ!
尾張山崎の城と土地も任せた時だって、この俺(信長)が言葉を掛けるほど期待した連中も追放しちまったそうじゃないか。これも直前に書いた刈谷の場合と同じ魂胆なんだろうよ。
佐久間家譜代の家臣たちの知行を加増したり、彼らの部下に与力を配属したり、家臣の新規雇用を行っていれば、こんな事にはならなかったんだよ。貯蓄ばかり考えるから、面目を失うんだ。お前らの悪評は今に中国大陸やヨーロッパにまで伝わるぞ。
それから、何年か前に朝倉との戦ん時、家臣達の判断が鈍くて追撃が遅れそうになった事があったから、叱ってやった事あっただろ? あの時にお前は恐縮するどころか生意気にも口答えなんかして、勝手に席を立っただろ。そのせいで俺(信長)は大恥を掻いたんだぞ。それにあの時、お前は大口を叩いてたけど、結局はあの時に俺(信長)が叱った事をまた繰り返してるじゃねぇか。この卑怯ぶりは前代未聞だな。
息子の佐久間信栄のやらかした事は書き出すとキリがねぇよ。
まとめると、お前らは欲深くて、気難しい上に、使える人間を雇おうとしなかった。物事を真剣に考えて取り組まなかった。要するに武士道をわかっていないから、こんなことになったんだよ。
与力にばかり戦わせて軍役を務め、自分の家臣も増やさず、金を無駄にしてるだけ、ホント卑怯だな。
おまえの与力や家臣達まで、お前を恐れて遠慮してんだ。お前が自分の思慮を自慢し、「可愛らしく振る舞う女性が、錦の中に針を隠しているかのように」相手の思惑を探るような怖い扱い方をするから、与力や家臣たちはおまえたちを恐れて何も言えなくなっちまったんだろうが。
俺(信長)が家督を継いでから、おまえは30年働いてきたけど、その間に素晴らしい働きだとこの俺が讃えるようなことは一度もなかったな。
俺(信長)が勝てなかった戦いといえば、武田信玄が大軍を率いて徳川領を攻撃したので援軍を派遣した時のことだ。戦の勝ち負けは時の運と昔から言うがそれはそのとおりで、出た結果については仕方ないよ。だけどそれにしても、大切な協力者の徳川家康を助けるために派遣したのだから、武田軍に負けるにしても、おまえの兄弟を討死させるなり、譜代家臣を討死させていれば、「佐久間信盛が生き延びたのは、卑怯者だからではなく運が良かったからだろう」と皆は考え、不審に思うことはなかっただろうな。だけどおまえは、佐久間勢から誰も死なせず、それどころか同僚の平手汎秀を見殺しにしておきながら、周りに平気な顔をして生きてる。お前が本当のバカだという事はこれではっきりわかったよ。
こうなったからには、どこかの敵を攻め落として名誉を挽回して戻ってくるか、討死するしかないだろうな。
さもなくば、親子共々頭丸めて高野山へ上って、ひたすら許しを請うかだな。
以上のように、数年の間、全く功績も上げず、お前らがただ命を惜しんでいるだけってことの詳細は今度の保田の一件で思い当たった。そもそも天下を治めているこの俺(信長)に口答えする生意気な野郎はお前がはじめてだわ。とにかく、終わりの2ヶ条は絶対に実行しろよ。もし実行しないのなら、二度と許される事はないと思え!
*
なお、信長は一般に横暴なワンマン権力者であるとのイメージが強い。家臣のわずかなミスでも粛正を辞さない冷酷な武将であり、このことが後の本能寺の変につながったとする評価もよく見られるものである。そんな信長ならこういった内容の手紙もちょっとしたことで出すだろうし、佐久間親子かわいそうというのがよく見られる反応である。
が、実際のところ信長に感情的でワンマン的な気質が少なからずあったのは事実にせよ、その実家臣を信じ切る武将という側面もあったとする説も唱えられている。
謀反が多かったのも冷酷だったからでは無く、あまりに信じてくれるので舐められていたからという説すらある。現に同じ相手から二度謀反を起こされた例もそこそこあるが、そもそもイメージ通りの冷酷な独裁者でなくとも一般的な武将なら謀反など起こされたらその時点で処刑するなり放逐するなりしているはずであり、取り逃がした相手と一戦を交えるとしてもそれはもはや謀反という形でなく、敵勢力と呼ぶべきなのが一般的である。
にもかかわらず同じ相手からセカンド謀反を起こされるということは、謀反を起こすような奴を一度は許して再び手勢として抱え込んでいたという、下剋上はびこる戦国の世にあっては常識外れに甘い武将であったという一面があったことの証左になり得る。
そんな信長がこの内容の手紙を出しているという時点で相当ブチ切れていたことは容易に想像がつくだろう。
一方では、信長としては、怠慢が過ぎていた信盛にキツめの喝を入れる事で、もう一度奮起させようとする目的からこの手紙を書いたものであり、本気で追放しようとまでは考えていなかったとする説も少なからず存在する。
だが、そんな信長からのこの書状を最後通牒と受け取った信盛は「身に覚えがない!」「これはなにかの間違いだ!」と喚き、抵抗したものの、使者役の者から返答を迫られた事で観念し、悩んだ末に最後の2か条の内から『剃髪して高野山に入山』を選択し、息子の信栄共々、織田家から追放されたのだった。
こうして武士の身分を失い、高野山へ入った信盛、信栄親子だったが、先の本願寺との一戦もあって、僧侶達の間では信長への不信感が高まりつつあり、追放されたとはいえその家臣だった信盛に対する風当たりもキツかった。
そして、遂には高野山からも追い出されてしまい、残っていた親族や家臣達からも見放された信盛は、たった一人だけ残った下人と共に乞食同然に熊野の野山を彷徨い続け、最後は十津川にて野垂れ死ぬ事となった。
十津川で死去した説については、同地に信盛のものとされる墓がある事から唱えられているが、一方で、信盛自身の書状や多聞院日記によれば信盛は高野山で穏やかに余生を送ったことがわかるため、追放をきっかけに家臣・同族達から見放されたのは事実といえども、『野垂れ死にした』説については信長公記の誤謬もしくは誇張であるとの説もある。
いずれにしても信盛の死後、信栄は織田家への帰参を許されており、それに伴い、佐久間親子に最後まで付き従った下人はその忠義を理由に小者から士分に取り立てられている。