三好政康
みよしまさやす
阿波に勢力を持つ三好氏の一門。所謂「三好三人衆」の一角に当たる人物で、地味なことに定評のある三人衆の中では(後述の通り講釈の登場人物のモデルとなったことなどもあり)割と有名な方でもある。父に三好政長※(宗三、細川晴元重臣)、弟に三好為三(一任斎、真田十勇士の一人・三好伊三入道のモデルとされる)がいる。
一般的には記事名にもある「三好政康」の名で知られており、本記事でも便宜上こちらの表記を用いているが、実際に「政康」の諱を名乗っていた記録は確認されておらず、現在では『細川両家記』の誤謬が伝播したもの、もしくは同じ三好氏の出身で名前の読みが同じである十河存保(三好実休の次男)との混同と見られている。
実際に確認されている諱は「政勝」と「政生(まさなり)」の二つで、また後述の永禄の変の直前に出家し「釣竿斎宗渭」と改名している。この為法名に由来した「三好宗渭」の名でも知られている。
※政康の父親についても諸説存在し、前出の三好政長の他、三好孫三郎頼澄(三好之長の次男、三好長慶の大叔父に当たる)の子とする記述も存在する。本記事の以降の記述では、便宜上前者の見解に沿って詳述するものとする。
前半生
天文13年(1544年)に父・政長より譲られる形で家督を継承。もっともこの家督移譲は主君・細川晴元の勧めによるあくまで形ばかりのものに過ぎず、実権は引き続き政長が掌握していた。
当時、晴元の腹心として権勢をほしいままにしていた父・政長に対し、三好本家の当主で政敵でもあった三好長慶や摂津の国人衆らは反発を強めており、天文17年(1548年)には遂に武力衝突にまで発展。この時政康は居城である摂津榎並城にて籠城していたが、長慶らの軍によって包囲され窮地に陥り、これを救援せんとした政長も江口城にて孤立に追い込まれた末、敢え無く討死してしまう(江口の戦い)。天文18年(1549年)6月の事である。
政康は榎並城から辛くも逃れた後、父の仇を討つべく近江へと下り、讃岐の香西氏や丹波の波多野氏と通じて長慶と対抗。天文20年(1551年)から翌年にかけて三度京都に攻め入り、長慶方の松永久秀らとも干戈を交えた。その後永禄元年(1558年)に和解勧告に応じ、長慶に臣従。永禄5年(1562年の)丹波八上城攻めや紀伊・河内守護の畠山高政攻めに参加し、優れた前線指揮官として三好氏の勢力拡大に貢献する。
永禄の変と内部抗争
永禄7年(1564年)に長慶が病死すると、幼君・三好義継の後見役の1人として台頭。三好長逸・岩成友通と共に『三好三人衆』と呼ばれ、松永久秀とも協力して家中で重きをなした。更に翌年には他の三人衆や松永久通(久秀の嫡男)と謀って永禄の変を起こし、敵対していた将軍・足利義輝を殺害する。
しかしその後、畿内の主導権を巡って三人衆と久秀が対立し、三好家中は内紛状態に陥る。政康らは久秀への対抗策として主君・義継の身柄を確保し、その上で義輝の従弟で阿波公方(阿波平島に在住していた将軍一族)の足利義栄を次期将軍に擁立。更には阿波本国の重鎮・篠原長房を味方に引き入れ、義栄に久秀討伐の御教書を発行させるなどして万全を期す。
そして軍を久秀の本拠地・大和に進駐させ、同じく大和を根城とする筒井順慶らと共闘し、戦局を有利に進める。
さらに永禄9年(1566年)、旧敵・畠山高政と組んで決戦を挑んできた久秀に大勝。なおも抵抗を続ける久秀に対し、義継の親征を仰いで戦わずして勝利を収めた。その後は、阿波から上陸してきた長房らの援軍も得て、阿波公方家の義栄を14代将軍として正式に就任させ、畿内の反対勢力をほぼ一掃した。
・・・と、ここまでは順調に思われた三人衆の動きであったが、摂津に迎えた将軍・義栄に対し主君同然に遇した事が、本来の当主たる義継の不興を買い、俄かに関係を悪化させる事となった。やがて義継は出奔の後久秀と結託し、加えて三好康長(三好長慶の叔父)ら一族内からも離反者が出たため、三好家中では再び三人衆と久秀による内部抗争が再燃する結果となった。
もっとも、この時点での戦局はまだ政康ら三人衆側に有利であり、永禄10年(1567年)に東大寺大仏殿の戦いでは久秀方に敗北を喫したものの、その後態勢を立て直し信貴山城を陥落させ、一時は久秀の本拠である多門山城をも包囲せしめていた。
信長上洛と消えた政康
だがこうした優位な状況も長くは続かなかった。翌永禄11年(1568年)、尾張の織田信長が足利義昭(義輝の弟)を擁立して上洛の途につくと、義継と久秀がいち早く織田氏に接近する一方、三人衆はあくまで信長との対立姿勢を見せるが、織田方によって勝竜寺城や淀城が落とされ、総崩れとなった三人衆方は畿内より駆逐される事となったのである。
政康もこの時山城の木津城から、本国・阿波へ退去した。その後も抵抗を続けたものの、畿内における信長の優位が確定した辺りで、以降の政康の消息・動向も不明となった。一説には永禄12年5月3日(1569年5月28日)に阿波で没したともいわれている。岩成友通も天正元年(1573年)に淀城にて討死、三好長逸も消息不明となるなど、一時は畿内の実権を掌握しつつあった三好三人衆も僅か数年のうちに壊滅を迎えたのである。
真田十勇士のモデル
前述の通り、歴史の表舞台から姿を消したかに見えた政康だが、実は彼には生存して再度歴史の表舞台に現れたとする俗説が存在する。この俗説によれば、その後豊臣秀吉の家臣となってそのまま豊臣秀頼に仕え、88歳の時には豊臣方として大坂の陣にも参加したとされる(この俗説を事実として採用するならば、生年は1527年頃という事になる)。
そこに至るまでの経緯は定かではないが、老齢にもかかわらず自ら金棒を振るい、味方の離脱者が続く中で秀頼に忠を尽くし、遂には大坂夏の陣で討ち死にしたという。この俗説は、後に成立した真田幸村の講談にも多大な影響を与えており、彼の部下である「真田十勇士」の1人・三好清海入道のモデルが政康とであると伝わっている。
刀剣への深い造詣
政康は当時一流の刀剣の目利きでもあり、「三好下野入道聞書」という目利き論の著書も書いている。鑑定術における、細川幽斎の師でもあった。長逸、友通、松永久通と共に将軍・義輝を殺害した際、義輝が抵抗する際に用いた刀剣の価値に気付き、丁重に保護したのはこの政康であったという説がある。
この時使用された刀は、童子切安綱、鬼丸国綱、鬼切安綱、ニッカリ青江、二つ銘則宗、不動国行、薬研藤四郎、骨喰藤四郎、大典太光世、小龍景光、南泉一文字、三日月宗近、鷹巣宗近、籠手切正宗、村雨郷といった日本を代表する業物であり、これら貴重な刀身の多くが今日に残っているのは彼の功績であるかもしれない。
とりわけ天下五剣の一つ、「三日月宗近」に関しては、後に三好氏から豊臣秀吉に献上され、さらに高台院を介して徳川秀忠に伝わり、以後徳川氏の元で管理されるようになったという話もある。ただし、三日月宗近の伝来に関しては他にも諸説あり、一次資料も無いので定かでない。