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岩成友通

いわなりともみち

岩成友通とは、阿波の戦国大名である三好家に仕えた武将。三好三人衆の一人。でも何故か名字は三好じゃない。戦死してるので三人の中で唯一没年は日付単位ではっきりしている。でも生年は不詳。?〜1573年8月29日。

概要

出自不明。他の二人は父親候補が二人以上いたりするが、彼はそれすら分からない。三好の一族だったとも、三好家の主家である細川家の領土だった大和石成や備後品治郡石成郷の関係者とも、京都郊外の下司(荘園や公領を管理する下級役人)だったとも言われたりするが、詳しいことは不明。

資料に登場するのは、1551年11月に堺で開かれた天王寺屋の津田宗達(津田宗及の父)の茶会への出席が最初である。その後は三好長慶の下で奉行衆として仕え、将軍山城占拠に参戦。六角義賢が京都に侵入した時は、室町幕府13代将軍足利義輝の警護を行った。長慶の没後は、三好長逸三好政康を含めた三好三人衆の一員として、松永久秀と共にまだ幼い当主・三好義継の後見役を務めた。

1565年の義輝暗殺をはじめ、他の三人衆と行動を共にし、足利義栄を将軍に擁立して京都の政務を担当した。そして、政敵となった松永久秀やその同盟者である畠山高政と争っている。1567年に1万の軍勢を率いて池田勝正と共に大和東大寺で久秀と対陣したが、久秀の奇襲を受けて敗北している。1568年に織田信長が上洛してくると徹底して抗戦し、守城の勝竜寺城を攻撃され退去。1569年には信長の庇護下にあった義輝の弟・15代将軍足利義昭の宿所を襲撃しているが撃退されている。

この後一時的に信長に臣従しているが、後に信長と対立した将軍義昭が各地の大名に信長討伐の指令を送ると、これに呼応して再び反織田の姿勢を打ち出した。結果、信長の命を受けた三淵藤英や細川藤孝らの軍勢に山城淀城を攻められ、奮戦したものの味方の裏切りに遭い敵中に孤立。藤孝の家臣の下津権内と組み合いとなり堀に落下、水中で討ち取られて戦死した。

逸話

三好三人衆全体としては有名だが、その割には一人一人の資料が少ないせいで彼個人の目立ったエピソードがない。例えば長逸は宗教に寛容でフロイスに称賛されていたり、政康は刀剣に造詣が深かったり、その後生存して大坂の陣に参加している説があったりするが、友通にはそういったこともない。ぶっちゃけ彼の中で一番気になるのは、なんで一人だけ三好姓じゃないのかという点だと思われる。

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