概要
室町時代最末期の幕臣の一人。藤英が産まれた三淵氏については不明な点も数多くあるものの、足利義満の庶子で引付頭人を務めた三淵持清を祖とし、代々奉公衆や御部屋衆などを務めてきた家柄であると伝わる。後に足利義晴の治世下で家格を上げ、父である三淵晴員の代には石山本願寺や播磨赤松氏との仲介役を務めるなどの働きを見せていた。
藤英も父と同様に義晴・義輝・義昭の三代に亘って幕臣として仕え、異母弟の細川藤孝らと共に衰退の一途を辿る室町幕府を支え続けたが、その藤孝とは後に足利義昭と織田信長が対立に及んだ際、信長に味方した藤孝とは袂を分かち幕臣としての立場を通した。
弟の細川藤孝が、武将としてのみならず文化人としても高名を馳せたのとは対照的に、藤英に関しては主に前半生が不詳である事や、幕府滅亡後程なくして歴史の表舞台から姿を消したのもあり、一般的な知名度はお世辞にも高いとは言えず、藤孝の兄であるという事や悲劇的な最期が知られる程度である。
そうした「知る人ぞ知る武将」という位置付けに留まっている状況は、2000年代に入ってからも長らく続いていたが、令和年間に入ってからは後述するドラマ・ゲームなど創作作品において、その存在がクローズアップされる機会も徐々にではあるが増えつつもある。
生涯
三淵晴員と、正室である養源院の間に生を受ける。前述の通り生年は不詳とされるが、異母弟の細川藤孝の生年が天文3年(1534年)である事から、少なくともそれ以前に生まれたものと考えられている。弟共々室町幕府第13代将軍・足利義輝(義藤)より偏諱を受けており、当初は藤之とも名乗っていた。
前半生について不明な点が多い事は先にも触れた通りであるが、天文年間には既に幕臣としての活動が見られていたとされ、父の晴員の出家後に弾正左衛門尉に叙任した事も確認されている。しかし永禄5年(1562年)、政所執事の伊勢貞孝が義輝や三好長慶に対し謀反に及んだ際、これに藤英も加担していた可能性が指摘されており、この後永禄の変に至るまでの数年間については記録上からも姿を消す事となる。
永禄8年(1565年)に足利義輝が三好義継や三好三人衆らに暗殺される(永禄の変)と、弟の藤孝や和田惟政らと共に、当時興福寺にて三好方の監視下にあった覚慶(義輝の実弟、後の足利義昭)の救出に当たり、これを義輝亡き後の将軍候補として擁立。その後は義昭の将軍就任のため朝倉義景や織田信長などを頼り、後には信長の助力も得て義昭の上洛にまで漕ぎ着けている。
義昭の将軍就任後は父・晴員と同様に大和守に任ぜられ、奉公衆として伏見城周辺の守備を命じられた他三好氏との戦いで各地を転戦。また一方では父より引き継いだ、清原氏(晴員の後室(藤孝の生母)が同氏の出身であった)などとの人脈も活かし、彼ら公家たちとの窓口として政務の面でも義昭を支えるなど、藤孝とともに幕府の重臣として活躍した。
しかしこの兄弟の協調関係も、義昭と信長の関係が対立に転ずるに従い重大な岐路に直面する。この時弟の藤孝が織田方に付いたのに対し、藤英はあくまで幕臣として義昭に従う姿勢を示し、未遂に終わったものの当時の藤孝の居城である勝竜寺城の襲撃を企てるなど、ここに至って両者は決定的に袂を分かつ事となる。
元亀4年(1573年)に義昭が挙兵し槙島城に籠もると、藤英は同じ奉公衆の伊勢貞興らと共に二条城を任されるが、織田方に包囲された事で藤英以外は城を退去、その後も孤軍奮闘を続けるが最終的には柴田勝家の説得に応じる形で降伏を余儀なくされた。
その後は伏見城は安堵された一方、室町幕府が滅亡すると織田方として弟の藤孝と共に岩成友通の籠もる淀城攻めに参加、これを陥落させている。しかし織田方としての藤英の活動が確認されているのはわずかにこれのみであり、わずか1年足らず後に突如として信長は藤英の所領である伏見城を破却の上で、嫡男の秋豪ともども明智光秀預かりとし、程なく藤英父子は坂本城にて自害を命じられた。時に天正2年7月6日(1574年7月23日)の事である。
藤英の死後、残された息子たちのうち光行は叔父である藤孝に養育され、後の田辺城の戦いにおいてその藤孝をよく助けた功を認められた事により、戦後旗本として召し出され三淵氏を再興している。また三男の朽木昭貞や、弟に当たる長岡義重も後に細川氏に仕えている。
創作作品
弟だけでなく、父の晴員までも同シリーズに登場経験がある中、藤英のみ長らく未登場という状態にあった。初登場も「創造」のPKにて息子の光行の形式親としてであり、弟の藤孝ほどの数値ではないもののパラメーターも設定されているが、こちらでも使用可能という訳ではない。
演:谷原章介
物語序盤より準レギュラーとして登場。言うまでもなく、大河ドラマにてここまで藤英の存在がクローズアップされるのは稀有な事である。
若年なのもあって情に流されがちな弟に対し、どちらかと言えば現実的な思考の持ち主として描写されている。作中では主人公の十兵衛(明智光秀)が堺に鉄砲を求めに赴いた際に初めて知り合い、その後も十兵衛が上洛した際に藤孝と切り合いになった際の仲裁や、三好長慶襲撃事件など要所要所で存在感を示した。
越前編においては、藤孝と共に主君であった足利義輝を「将軍の器」でないと見切りをつけ、早くから義輝の弟の覚慶(足利義昭)を次期将軍に擁立すべく動いていたが、一方で覚慶の擁立に積極的であった藤孝に対し、藤英は将軍になるだけの器量があるかどうか迷う様子を見せるなど、兄弟間での見解もこの頃よりすれ違いが見え始めつつあった。
後に、義昭が朝倉義景を頼って越前に赴くと藤英もこれに同行するが、当の朝倉家中では義昭を奉じての上洛について意見がまとまらず、十兵衛の進言もあって美濃を制したばかりの織田信長の元へ身を寄せる事を決断。サブタイトルにもフィーチャーされた第26回「三淵の奸計」は、そんな藤英が義昭らを越前より安全に出国させるべく一計を案じる様が描かれた回であり、彼が家中でも上洛に消極的であった山崎吉家や朝倉景鏡に「知恵を出し合う」ことを持ち掛けた事が、義景の嫡子・阿君丸の毒殺と、愛息を喪った義景の上洛断念へと繋がる事となった。
この一件を経て藤英も腹を括ったのか、京・伏魔殿編においては一貫して将軍・義昭を支える立場を通し、また摂津晴門の処遇や信長への反感など、前述した兄弟間そして十兵衛との見解の相違も、次第に色濃いものとなっていった。
それでも、摂津による十兵衛暗殺の企てに際してはその危地を救ったり、義昭が信長打倒の旗幟を鮮明にした際にはこれに参じて欲しいと要請するなど、あくまで十兵衛に対しては好意的な姿勢を見せ続けていたものの、結果として十兵衛は信長に仕える事を選択、両者は敵味方同士に分かれる格好となってしまう。
義昭が京都を追われ、彼の下で二条城の守備に当たっていた藤英も敗軍の将となるが、それでも伏見城にて十兵衛や藤孝と対面した折には、「時流を読んで」信長側に内通していた藤孝の姿勢を厳しく詰り、また居城であった伏見城を破却され十兵衛の下へ預けられた際、信長の処置に当惑する十兵衛に「家臣」としての心構えを説くなど、愚直ながらも「生まれながらの幕臣」としての矜持を、その最期の時まで通し続けた。
無双奥義・無双秘奥義の文字…【奉】『責』
区分:固有武将
得意武器:薙刀
所属:足利将軍家
CV:富岡佑介
2021年6月に発売された『戦国無双5』にて、よもやの固有グラフィック付き、かつプレイアブルキャラクター(※)として初参戦。
上記『信長の野望』とは逆に、弟や甥に先んじての登場となった。
一応、スタッフからは「大河ドラマとストーリー的なコラボをしようと狙って登場させたわけではない」旨言明されているが、人物造形などには明らかに『麒麟がくる』での藤英に影響を受けたであろう部分も見受けられる。
(※ 当初、藤英も含めた10名の武将は特殊NPCとしての登場が予定されていたが、後に追加でのプレイアブル化が発表されたという経緯を持つ)
将軍に忠義を誓う武将。
英傑大戦
同じSEGAのアーケードゲームで、戦国時代をテーマにした戦国大戦では稼働終了まで実装されなかったが、三国志・戦国・幕末の人物が登場する本作において、稼働当日より実装。
玄の勢力の所属で、2コストの槍兵。武力が6とやや低いが知力が8と高く、撤退時間が短くなる「復活」、相手からは視認出来ず接触時に知力差でダメージを与える「伏兵」、流派ゲージが溜まりやすくなる「技巧」の特技を保有する高スペックな性能をしている。
計略は士気5消費の『御所への忠誠』。範囲内の味方の武力が4上がるが、効果終了時に藤英が撤退するというもの。効果終了時には兵力が最大値であっても強制的に藤英は撤退する為、2コストが落ちた状況で戦わざるを得ない。しかし戦国大戦における瀬田に旗をや百万一心、髑髏の酒杯とは違い、計略発動で撤退はしない為、部隊差を付けられにくいという点では優れているといえるだろう。
『命に代えても
守るべきものを守る』