概要
大坂牢人五人衆とは、大坂の陣(慶長十九年に発生した大坂冬の陣、並びに慶長二十年に発生した大坂夏の陣)にて、豊臣秀頼の大坂方に味方して徳川家康を脅かした五人の牢人出身の武将を指す言葉である。
なお、当初は長宗我部盛親、毛利勝永、真田信繁(幸村)の三人で構成された「三人衆」であったのだが、冬の陣の開戦直前にてとある理由から後藤又兵衛、明石全登の二人が加わり、「五人衆」へ至ったとされている。
五人衆という用語は、江戸時代中期に成立した『落穂集』が出典となっている。
これは大坂の陣当時の一次史料ではないため、当人達が存命中にこのような名で呼ばれていたのかどうかは定かではない。とはいえ、この五人の牢人達が大坂方の主力として奮戦したこと、大坂城内で一目置かれていたこと自体は、当時の史料からも裏付けが取れる。
更にこの五人に先述の大野治房と木村重成を入れ「大坂七人衆」と呼ぶこともあるが、大正時代に発刊された元福岡藩士のジャーナリストの福本日南による『大阪城の七将星』の影響もあり「大坂城七将星(または大坂七将星)」という呼び名も生まれている。
更には、五人衆や七人衆以外の主な牢人武将としては、仙石秀範・氏家行広・塙団右衛門・御宿官兵衛・細川興秋・薄田兼相等がいる。
背景
方広寺鐘銘事件や片桐且元の大坂城退去により、豊臣家と江戸幕府との間で開戦の機運が高まると豊臣家は牢人達に号令をかけ、その結果約10万人の兵力が集まった。
とはいえ彼らを指揮する武将がいない事には10万の兵もただの烏合の衆に過ぎず、その為に牢人達の中でも牢人に身をやつす前は身分が高かった者が武将として抜擢され、兵を預けられることになった。
彼ら五人衆は、牢人となる以前の身分も立場も牢人になって以降の境遇も様々であり、決して一枚岩の集団では無く、冬の陣の後に大坂城内が和睦派と徹底抗戦派で分裂した時も、五人衆の態度は様々であり一致してはいなかった。
俗説では冬の陣の直前に牢人達が城の外に打って出ることを主張したものの、大野治長の籠城策が採用され牢人達の策は退けられたとされるが、そもそも大坂城に入城した直後の牢人達に、治長と対等の立場で軍議に参加する権利は無かったと考えるのが妥当である。
こういった牢人武将達はあくまでも客将の身分であり、「籠城するか外に打って出るか」「和睦か徹底抗戦か」といった大まかな戦略は、本来は総大将である豊臣秀頼とその重臣達(大野治長、速水守久、木村重成等)によって決定されるものである。
しかしながら、戦いが長引くにつれて主力として最前線で戦っている牢人達の意向を無視する事が難しくなり、木村重成や治長の弟の大野治房の様に牢人達に同調する秀頼家臣も現れた結果、次第に牢人達は良くも悪くも豊臣家の命運を左右する存在へと変貌していった。
五人衆のそれぞれ
長宗我部盛親
一言で言えばとことん運がない人物。四国の覇者として名高い長宗我部元親の四男。
戸次川の戦いで継嗣だった長兄・長宗我部信親が戦死するとその跡を任されるが、この跡目について父・元親の強引な決定があり、家中が混乱。これが盛親の運なき人生の始まりになった。元親の死後に発生した関ヶ原の戦いでは東軍に付こうと家康に密使を送っていたが、西軍方の長束正家に阻まれて連絡を取る事が出来ず、西軍から鞍替えできないままやむなく本戦に参加してしまう。さらに関ヶ原の戦い本戦では毛利秀元が布陣した南宮山より後方の栗原山山麓に布陣するも、吉川広家が家康に内応して毛利軍総大将の秀元を籠絡、遠望の利かない南宮山山頂に押し込めたまま本戦不参加の戦術的背任を決め込んだ為、更に後方の盛親も状況が掴めないまま進軍する事が出来ず、そのまま戦わずして敗軍の将となる。
その後、毛利輝元が退去し大坂城が戦わず降伏した後、土佐に帰国して懇意であった井伊直政を通じて謝罪しようとする。そのまま日和見の末でならまだ申し開きがあろうモノを、元親が強引に盛親を跡目にしてしまった火種が未だ燻っていた家中にて紆余曲折の末、三兄・津野親忠を殺害してしまう。この事が家康の決定的な怒りを買って改易されてしまう。
その後は単身、京都で寺子屋を経営するが大坂の陣が始まると牢人として参戦。牢人に身をやつす前は土佐一国の国持ち大名であり、身分の高さは五人衆の中でも随一であった。大坂冬の陣では真田丸に布陣していた信繁に手勢の一部を貸し与え、自身は惣構にて井伊直孝の部隊を撃退した。大坂夏の陣では最大の激戦として名高い八尾・若江の戦いでは、若江での重成の敗北で撤退せざるを得なかったものの、それまでは八尾で藤堂高虎隊を破っている。
大坂城が落城すると再起を図って逃亡するも、京都八幡(現在の京都府八幡市)近くに潜伏していた所を発見され五条河原にて斬首、首は三条河原に晒された。
毛利吉政(毛利勝永、森吉政)
五人衆最年少だが、五人衆の中では実質的に牢人達のまとめ役を務めている。豊前小倉六万石を拝領する毛利勝信(森吉成)の嫡子。父同様、秀吉に仕えた譜代の家臣。関ヶ原の戦いで西軍に与し前哨戦である伏見城の戦いで多くの武功を挙げるも、大坂城の毛利輝元が戦わず開城してしまった為、敗軍の将となった吉政は父と共に改易され、身柄を加藤清正、次いで土佐の山内一豊・忠義に預けられる。
大坂の陣が勃発すると忠義の目を欺き土佐を脱して単身、大坂に上る。その采配振りは攻めるも退くも誠に見事で、殊に大坂夏の陣では天王寺口の戦いにて兵四千名を率い家康本隊に正面から突撃。瞬く間に本多忠朝、小笠原秀政・忠脩父子といった譜代衆の首を取り浅野長重、秋田実季、榊原康勝、安藤直次、六郷政乗、仙石忠政、諏訪忠恒、松下重綱、酒井家次、本多忠純らが率いる実に十の隊を突破、遂に家康本陣を脅かし真田隊と共に家康に肉薄する。しかし信繁が戦死すると戦線が崩れ敵兵が吉政隊に集中し、惜しくも桶狭間の戦いの再来はならず、手土産とばかり藤堂高虎隊を打ち破って井伊直孝や細川忠興らの追撃も退け殿として大坂城に撤退する。
その後は『井伊年譜』によれば、炎上する大坂城で秀頼の介錯を仕り(秀頼の介錯を務めた人物については氏家行広や速水守久などの他説あり)、息子である毛利勝家とともに自身も蘆田矢倉で静かに自害したという。
後世の人気においては真田幸村の陰に隠れがちだが、五人衆最年少ながら圧巻というほかない見事な戦いぶりであり、神沢杜口に「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」と嘆かれている。
真田信繁(真田幸村)
「表裏比興の者」の異名で知られる信濃国上田城を本拠地とした大名・真田昌幸の次男。真田氏が豊臣秀吉に臣従する際に人質として送られ、その後に秀吉の馬廻として取り立てられた為に豊臣直参でもあった。関ヶ原の戦いでは父と共に西軍につき、東軍主力である徳川秀忠軍を上田城で足留めし本戦に遅参させた。その後、家康の命で昌幸共々西軍の首謀格の一人と見なされ処刑される事になったが、東軍に属していた兄真田信之とその義父本多忠勝の懸命な助命嘆願により、命だけは許され父と共に九度山への流刑と処されるが、父の死後に息子の真田大助の他、複数の家臣や志願した農民達を連れて九度山から脱出し大阪城に入る。
しかし、大坂の陣に至るまでは殆ど無名の武将であった為、あくまでも「真田昌幸の子」というネームバリューから牢人三人衆の一人に数えられながらも豊臣家からの信頼は薄かった。加えて、出城である「後藤丸」を築こうとした後藤又兵衛の意向を無視して彼の用意した資材を勝手に撤去して「真田丸」を築こうとした結果、激しい諍いになっており、後藤又兵衛が賛同する牢人達と共に排除に乗り出す事態にまで発展するというトラブルを招いてしまっている。この妥協案として、後藤又兵衛と諍いの仲介役を担った明石全登の二人を加えた「牢人五人衆」とする事になるのだが、当然ながら指揮系統が複雑化してしまう事になり、結果的に豊臣家側に多大な迷惑をかける事になっている。
大坂冬の陣では大坂城の南に築かれた出城に布陣し前田利常・井伊直孝・松平忠直勢の攻撃を撃退。信繁が活躍したことにより、この出城が真田丸(真田ヶ丸)の名で呼ばれるようになった。
夏の陣の道明寺の戦いでは霧で戦場への到着が遅れるも、各個撃破され敗走する味方を収容して態勢を立て直し、勝ち誇る伊達政宗勢と交戦して押し返し、後退する大坂勢の殿を務める。
翌日の最後の決戦である天王寺の戦いでは、数倍の兵力を持って襲い掛かる越前松平家の軍勢と相対し犠牲を出しながらもこれを突破、毛利吉政勢とともに家康本陣に突撃する。家康を討ち取る寸前まで追い詰めるも、三度の突撃の後ついに力尽き、最後は越前松平家臣の西尾宗次によって討ち取られたとされる。
俗説ではあるが、鹿児島をはじめ各地で生存説が伝えられている。京都で信繁の活躍を伝え聞いた島津忠恒は国許に「真田日本一の兵、いにしへよりの物語にもこれなき由。惣別これのみ申す事に候」と報告した。神沢杜口は、自身の著した『翁草』の中で「列序を立てんに、古今独歩は真田信繁」と称賛した。
後藤正親(後藤又兵衛)
五人衆最年長。元は秀吉の知恵袋・黒田官兵衛に仕え、黒田家において侍大将に任じられたほどの勇将で母里太兵衛らと共に「黒田八虎」の一人。槍を持たせれば天下一で、軍略にも通じ関ヶ原の戦いでも嫡子の黒田長政に従い西軍を蹴散らし家康からも御宿官兵衛と共に勇猛ぶりを讃えられた程となっている。
黒田家当主の二代目となった長政と何故かトコトン折り合いが悪く、朝鮮の役では長政が窮地に陥った際に敵兵ともつれて落ちた川の上から見物を決め込み、不思議に思って「何故、主君を救援しないのか」と訊ねた小西行長配下の味方兵に「此処で討たれるようなら我が殿では御座らん」とまで言い放っている。そして如水の死から二年後、ついに出奔。この際、長政から奉公構という仕官禁止令を出されたため、引く手数多ながらも無頼に身をやつす。その後、豊臣氏が浪人を募りだした折には真っ先に大坂へと出向く。
大坂の陣では閲兵の折に指揮を任されその見事振りから「摩利支天の再来」とまで称される。大坂冬の陣では今福の戦いで木村重成の後詰として佐竹義宣・上杉景勝と交戦している。一方で、前述通り、真田信繁とは冬の陣開戦前に諍いを起こし他の牢人達を率いて追放処分にしようとした等、牢人達の中では「過激派」と見られても仕方の無い部分もあったが、五人衆の中では唯一、関ヶ原の戦いにおいて東軍側に付いていた事もあってか、徳川家とは因縁も遺恨も特に無かった為、徳川に対して特に恨みはなかったと考えられる。その為なのか、冬の陣の後に大坂城内が和睦派と徹底抗戦派で分裂した際には、牢人達の中では数少ない和睦派として大野治長に同調しており、内通を疑われたことさえある。
大坂夏の陣では先鋒として二千八百の兵を率い、寡兵にて徳川軍先鋒・奥田忠次らを討ち取りながら孤軍でおよそ八時間も奮戦し、敵味方から賞賛された。一般的には霧で後続の明石や真田など諸部隊が到着できなかった為、着陣した小松山にて伊達政宗・水野勝成ら三万以上と言われる関東方を相手に孤軍奮闘の末に伊達軍の片倉重長相手に討ち死にしたとされるが、各地に生存説が伝えられてもいる。
明石全登
前半生については謎の多い熱心なキリシタン武将。浦上則宗の家臣・明石行雄の息子として備前で生を受けたというのが今日の通説である。行雄はのち宇喜多家に降り全登の代まで宇喜多直家・秀家父子から客将として遇された。のち宇喜多騒動によって宇喜多家の重臣たちが出奔したため、全登は秀家から抜擢され宇喜多家の家老待遇となる。関ヶ原の戦いでは宇喜多勢八千名を率いて先鋒を務め、歴戦の福島正則相手に善戦した。
戦後、秀家が改易されて流刑に処されると、同じくキリシタン大名であり母が明石一族である黒田如水に庇護された。如水死後は後継の長政がキリスト教を禁教とした為、柳川藩の田中忠政を頼ったとされている。
大坂の陣が勃発すると牢人として参戦し、大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで別働隊として采配を振るも、信繁が越前勢に討ち取られ真田隊が壊乱、これを受けて毛利吉政隊も撤退すると全登は松平忠直勢らに突撃し、その後姿を消した。
『徳川実記』によれば水野勝成配下の汀三右衛門に討ち取られたとされる。東北や九州果ては明や南蛮への逃亡生存説が伝わっており、五人衆の中でも特に生存説が根強い。前半生が謎なら、その最期も謎で「明石狩り」が島原の乱の後まで何度も行われたという。
その他の将(抜粋)
- 塙団右衛門:本名は塙直之。その名字から織田信長家臣・原田直政(本姓は塙)の一族説もあるが不明。加藤嘉明の鉄砲大将を務めるもその猪突猛進ぶりを嘉明に苦言され臍を曲げて出奔。直之は大坂冬の陣の夜討ちで蜂須賀至鎮(正勝の孫)勢を打ち破り名を挙げるも、夏の陣の緒戦の樫井の戦いで、不仲の岡部則綱と先陣争いをして突出し、浅野長晟(長政の次男)勢に包囲され戦死を遂げた。
- 御宿政友:通称は御宿勘兵衛。武田信玄の侍医を務めた御宿監物の子という説が有力。武田勝頼・北条氏直・結城秀康に仕えたが秀康の長男・松平忠直の代に出奔。家康が戦前に後藤又兵衛と並んで警戒した程の武将だった。のち政友は大阪夏の陣で友人であり、旧主松平忠直の家臣の野本右近に「馬に不自由しているので忠直様の荒波を拝領したい」と使者を送り、当然、忠直は激怒するも野本が執り成し、荒波に乗った政友は奮戦の末に天王寺・岡山の戦いにて野本に首を預けたとも言われる。戦後、彼の首を見た家康は「勘兵衛(政友)も老いたな」と述べたという。
- 北信景:南部信直の重臣・北信愛の外甥で養子。信直の長男・利直の代に発生した和賀一揆で養父を救援し一揆鎮圧に手柄を上げ利直から直吉の名を授かる。のち金山奉行を務めたりしていたが利直といさかいを生じ大坂入城。名を南部十左衛門信景と改め派手な出で立ちから「南部の光り武者」と称された。戦後捕縛され盛岡に連行、利直の手で処刑された。