概要
天正18年(1590年)2月11日、異母兄・直勝がこの年2月に生まれた直後、上野国高崎城主・井伊直政の次男として駿河国中里で生まれる。正室・唐梅院の子ではなかったため(母親は唐梅院の侍女だったとされる)、幼少期は父の領国・上野国安中の北野寺に預けられ養育された。父の直政は唐梅院に遠慮があったため、直孝になかなか会おうとしなかったとされる。
慶長5年(1600年)の関ケ原の戦で負傷した父・直政が、慶長7年(1602年)に死去。
直孝は、この年、江戸にあって家康の三男・秀忠に仕え、秀忠の将軍就任後には従五位下掃部助に叙位・任官、書院番頭に任じられた後、慶長15年(1610年)上野国白井に1万石を与えられ、大番頭に任じられた。
慶長18年(1613年)には伏見城番に任じられ、大坂城を監視する役目となった。
慶長19年(1614年)10月に「大坂冬の陣」がはじまる。
直孝は「井伊家の大将」として越前北ノ庄城主・松平忠直とともに八丁目攻略を任されたが、大坂方・真田幸村の挑発に乗って先陣を切ってしまい、幸村と木村重成の挟撃にあい500人もの死者を出す痛手を被ってしまった。
当然、軍令違反をとがめられたが、家康が「味方を奮い立たせた」とかばったため不問にされた。
大坂方との和睦した慶長20年(1615年)、父・直政の遺領・近江彦根藩を継いだ異母兄・直勝が病弱なこともあって領国をまとめきれなかったことが問題となる。このことを憂えた家康は直勝に上野国安中に3万石を与え、直政の遺領18万石のうち15万石を直孝に与える裁定を下した。
慶長20年(1615年)5月、「大坂夏の陣」がはじまる。
河内方面からの軍の先鋒を伊賀上野藩主・藤堂高虎とともに任された直孝は6日に若江で大坂方・木村重成勢と激突してこれを破り、重成を敗死させ、木村勢を壊滅した事で、八尾で長宗我部盛親勢に苦戦していた高虎の苦境を救い、7日の天王寺合戦では昨日の戦いの損耗で先陣を務められなかったものの、敗走する大阪方を追い込み、秀忠の意を受けて大坂城山曲郭に鉄砲を撃ちかけ、籠っていた淀殿・豊臣秀頼母子を自刃に追い込む大功を果たし、戦後、功を認められて5万石を加増された。
寛永9年(1632年)、大御所・徳川秀忠の病床に姫路藩主・松平忠明とともに呼ばれ、3代将軍・徳川家光の後見を託され大政参与に就任、大老職のはじまりとなった。
寛永10年(1633年)にはさらに加増され30万石(35万石格)となり、譜代大名最大の領地を有することとなる。石高は幕末まで変わることはなかった。
万治2年(1659年)6月28日死去、長男・直滋とは不仲であり、万治元年(1658年)に出奔したため廃嫡、末子・直澄が遺領を継ぐこととなった。