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第二次紀州征伐

だいにじきしゅうせいばつ

 天正十三年(西暦1585年)、羽柴秀吉が紀伊の諸勢力を攻めた戦。
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第二次紀州征伐とは天正十三年(西暦1585年)、羽柴秀吉紀伊国の諸勢力を攻め、恭順させた戦いの事を指す。尚、第一次紀州征伐織田信長が天正五年(西暦1577年)に紀州へと攻め入った戦いを指し、この他、紀州に攻め入った織田信長の戦乱を信長の紀州攻め第一次紀州征伐)、同じく秀吉の戦乱を秀吉の紀州攻めと区別して呼称をされたりもする。

秀吉が紀州征伐に踏み切る背景

 先年に徳川家康と争った小牧・長久手の戦いでは反織豊政権の立場を鮮明にして親織豊政権の立場にあった鈴木孫市を追放し、土橋若大夫の遺児である土橋平丞を擁立して南から大阪城を攻め秀吉の出馬を遅らせるという成果を上げた雑賀衆根来寺であったが、最大戦力を保有する織田信雄秀吉と和睦し、同じく徳川家康も兵を引くと、大阪のすぐ南に位置した紀伊北部の雑賀衆根来寺秀吉の頭を悩ませた分、早々に討伐軍を向けられてしまったのである。
 此処で今少し雑賀庄の内部事情に触れておくと、紀伊国側では特に反織田家の姿勢を示した雑賀庄にて内部分裂が発生しており、「雑賀の二雄」として名高い鈴木孫市が同じく二雄の一人である土橋若大夫を殺害するという事件が起きており(天正十年一月二十三日)、逆に鈴木孫市は政治主導権を得る為に織田家の後見を求め織田家も是を了承した事から、雑賀庄の主導権争いは根来寺にまで飛び火し、織田信張らの援軍を得て鈴木孫市根来寺の塔頭である有力国人、泉識坊を攻め滅ぼすなど紀伊北部の平定を行って武力による統一を果たしていた。が、本能寺の変によって勢力図は一変、鈴木孫一雑賀庄から逃走して根来寺雑賀庄は和睦し、再び惣国と表現して良いだけの関係がもたらされる事になる。小牧・長久手の戦い紀州諸勢力が反目したのはそうした背景があった。

そして秀吉大阪城を狙って淡路島菅達長といった水軍勢力とも合流し一大勢力を引き入れた紀州勢力に強い警戒心を抱き(この時の大阪城下の戦乱は天正十二年正月から三月まで。岸和田合戦。この時、大阪の治安悪化は安土炎上時の城下町に匹敵したという)、是が紀州征伐へと繋がるのである。
 趨勢は和泉国岸和田(大阪府岸和田市)が境界となり、以北は秀吉に対して従順の意を、以南は紀州諸勢力への与力を行うという形になる。紀州北部の勢力は名目の大将として前紀伊国守護である畠山氏の畠山貞政を担ぎ上げ、紀南の有力勢力である湯川氏の湯河直春らも是に従軍、対して秀吉は天正十三年(西暦1585年)三月、小早川隆景に水軍を派兵させる一方で、本能寺の変による先の混乱によって天正十一年七月、鷺森から貝塚へと移った本願寺法主、顕如光佐を安堵する。

一触即発の膠着から交戦へ

 こうして和睦交渉も決裂していよ決戦が訪れる。秀吉は自らを総大将として、先陣大将に羽柴秀次、水軍大将として小西行長を取り立て進攻を三月二十日に開始。軍勢は六万から十万名とされる。対する紀州勢力の総軍勢は不明である。
 少なからぬ犠牲を出した緒戦、翌二十一日の千石堀城の戦いにて先手の羽柴秀次隊が勝利し千石堀城が落城すると、同二十一日に細川忠興池田輝政らによって攻撃されていた積善寺城貝塚御坊の住職である卜半斎了珍の仲介で二十二日に降伏開城し、同じく高山右近中川秀政の両将に攻められていた沢城も二十三日に降伏開城する。こうして進攻が開始された二十日から僅か三日間の二十三日までで和泉国は粗方、秀吉側に敗戦、或いは降伏する様態と相成る。
 この三城の早々な降伏は紀州勢にも予想外であったようで、三月二十三日に岸和田城を出発して紀州根来寺に入った秀吉軍の前を阻む兵力は既に根来寺内には存在せず、根来寺は現存ずる国宝の多宝塔など一部の建築物を除いてその殆どが炎上、同時刻に粉河寺も炎上する。雑賀庄でも反織田勢力の旗印であった土橋氏の後継、土橋平丞も三月二十二日、四国長宗我部元親を頼って船にて逃亡し、雑賀衆全体からしても全く統率が取れず、それどころか親秀吉派と反秀吉派が同士討ちを始める始末で「雑賀も内輪散々に成て自滅」(貝塚御座所日記)と称される結末に終わる。そして秀吉は三月二十五日、紀三井寺に参拝して粗方の紀州征伐が終結に至った。

紀州征伐の事後

 秀吉自身は雑賀衆の残党が籠城する太田城を攻めつつ、南紀の湯川氏らを討伐する別働隊として仙石秀久中村一氏小西行長らに指揮を任せ、四月十日には高野山も全面降伏する。こうしてフロイスをして「大いなる共和国」と称された紀州は利権解体の為、羽柴秀長によって統治される事になるのである。

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