1506(永正3)年~1585(天正13)年
筑後高橋氏の出身だが、父の高種は家中の讒言によって家中を追われて上京し、9代将軍足利義尚に、義尚の死後に堀越公方・足利政知に仕えた。
政知の死後に蟄居していたが、北条早雲の誘いに乗り後北条氏に仕えるようになった。
母は早雲の養女、正室が早雲の娘。
概要
1524(大永4)年、扇谷上杉氏の本拠であった江戸城攻略戦時に功績をあげ、伯父である北条氏綱の猶子となり、北条姓と「綱」の一字を与えられ、綱種と名乗るとともに相模玉縄城代に任ぜられた(氏綱の子・氏康の時に「綱高」に改めている)
1537(天文6)年には江戸城主に転じ、その後も1546(天文15)年の河越夜戦や1554(弘治元)年に剃髪したあとの1564(永禄7)年の第二次国府台合戦に参陣した。
1580年、江戸城で死去。子の康種と孫の氏資の時に後北条氏が滅びたため、高橋姓に復した。
北条家の猛将として、五色備の一つである赤備えを率いた。