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概要編集

戦国時代の武将・僧侶(天文8年1539〜慶長7年1602年)。徳禅院玄以とも。

若い頃は美濃の僧で、禅僧あるいは比叡山の僧とも伝えられている。


後に織田信長に招聘されて臣下に加わり、信長の命令でその嫡男・織田信長付の家臣となった。


天正10年(1582年)6月、本能寺の変に際しては、信忠と共に二条新御所にあったが、信忠の命で逃れ、嫡男の三法師を美濃国岐阜城から尾張国清洲城に移した。


天正11年(1583年)、信長次男・織田信雄に仕え、信雄から京都所司代に任じられた。


天正12年(1584年)、羽柴秀吉の勢力が京都に伸張すると、秀吉の家臣として仕えるようになった。


文禄4年(1595年)、秀吉より5万石を与えられて、丹波亀山城主となった。


豊臣政権においては京都所司代として朝廷との交渉役を務め、天正16年(1588年)の後陽成天皇聚楽第行幸では奉行として活躍。また寺社の管理や洛中洛外の民政も任され、キリシタンを弾圧したが、後年にはキリスト教に理解を示し融和政策も採っている。慶長3年(1598年)、秀吉の命令で豊臣政権下の五奉行の一人に任じられた。


蒲生氏郷が病の際に、秀吉は9名の番医による輪番診療を命じた。この仕組みの運営は玄以邸で出されている。玄以が検使として立ち合っており、診療経過は逐一、秀吉に報告された。


秀吉没後は豊臣政権下の内部抗争の沈静化に尽力し、徳川家康の会津征伐に反対した。


慶長5年1600年、石田三成が大坂で挙兵した際は、三成の挙兵に関わらなかった、とする説があるが、全く三成に協力しなかったというわけではなく、家康弾劾状の副状の責任者となっている。ただし、豊臣秀頼がいる大坂城の留守を預かった増田長盛と同じ立場であったが、長盛のように大坂城内にありながら徳川方に内通しているようなことはなく、長束正家のように石田・毛利方として軍事行動をすることもなく、秀頼の警護を大義として、豊臣家として中立の立場でいたとされる。これらの行動が評価されたらしく、関ヶ原の戦いの後の10月16日、丹波亀山5万石の本領を安堵され、初代藩主となった。


慶長7年(1602年)5月20日、死去した。


長男の秀以は前年に早世していたため、三男(次男という説もある)の茂勝が跡を継いだ。


人物編集

  • 上記にもあるように、当初はキリシタンを弾圧していたが徐々に理解を示し、ポルトガルインド総督とキリシタン関連で交渉。息子2人はキリシタンになっている。不行状している坊主を強く非難した事もあった。
  • 「常にこそ、曇りもいとへ今宵そと、おもうは月の光なりけり」。
  • 京都所司代に任じられたとき、目の前を塞ぐ牛車を見て「牛を斬れ」と命じる。人々は玄以を恐れたが、玄以は在任中誰ひとりとして処刑しなかった。自分を印象付けるためのパフォーマンスだとされる。
  • 月岡芳年月百姿にも描かれている。

創作では編集

清須会議編集

三谷幸喜の小説および映画。清須会議の評定役を任される。


花の慶次編集

顔に特徴的なキズがある、厳ついフェイスで登場。



関連タグ編集

近畿勢 戦国武将 五奉行 戦国三英傑

僧侶


  • 安国寺恵瓊太原雪斎:武将と僧侶を兼ねていた人物つながり。但し恵瓊は自ら大名を名乗ったことはない。

表記揺れ編集

徳禅院玄以


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