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1578年(1577年とも)、明智光秀の丹波攻略の拠点として亀岡盆地に築城。

短期間で築かれたため福知山城同様石垣には一部墓石等も用いられた。

三層の天守も築かれた。

本能寺の変では明智光秀はこの城から出陣したとされる。

豊臣時代には丹波の要として五奉行や羽柴、豊臣姓を持つ重臣がそれぞれ城主となっている。

江戸時代に入ると家康もこの城を重要視し、譜代の岡部氏を城主と定め天下普請と藤堂高虎の縄張りによる近代城郭として改修を行った。

五層の層塔型天守が建てられた。

この天守は日本初の層塔型天守とも言われている。

だが、一説によると今治から国替えしたばかりの藤堂高虎が今治から運ばせた「今治城天守」を移設したという説もある。

元々は自身の城に使う予定だったが、幕府に献上したとも言われている。

ただ層塔型天守としては時期早々とも言われており、写真に残る明治期の天守は江戸時代に再建された可能性もあると言われる。

尚、1748年に「亀岡藩」と名を変えており亀山城もおそらく「亀岡城」と名を変えたものとされる。

大正時代には城跡を新興宗教「大本」の出口王仁三郎が買い取り、一部石垣等を改変し「聖地」としたと言われている。

だが政府は「大本」の影響力を恐れ二度の徹底的な弾圧を加え、その際城内部のものもダイナマイトで徹底的に破壊された。

戦後復活した大本に所有権は移って現在に至る。

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