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細川真之

ほそかわさねゆき

細川真之とは細川家分家の1つである阿波細川家最後の当主で、三好義賢によって当主に擁立される。後に長宗我部元親と結んで異父弟・三好長治を滅ぼすも今度は自らが長治の弟・存保に討たれる。(1538年-1582年)
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父の後を継ぐ編集

1538年、阿波細川家当主・細川持隆の長男として生まれる。異父弟に三好長治三好存保(父は三好義賢)、長宗我部右近大夫(父は長宗我部元親)。母は小少将


彼が15歳の時(1553年)に父の持隆は阿波公方・足利義栄を擁立して上洛を図るもそれを良しとしなかった三好義賢に謀殺され、結局義賢の手によって阿波細川家当主として擁立される。更に彼の母も義賢の妻となり、同年に子・長治を生んだ。

三好家への復讐編集

1562年に久米田合戦にて義賢が戦死し、解放されるかと思われた。しかし実際は義賢の子にして真之の弟・長治が引き続き実権を握った。そのため、異父弟に利用され続ける事に真之は激怒。細川家の実権奪回を図るべく情勢を待った。


そして1575年ごろに長治の暴政が苛烈を極め始めると、同じ頃に四国統一に向けて進撃を開始した長宗我部元親に対して一宮成助(小笠原成助)と共に寝返った。阿波細川政権奪回を図るべく1577年に荒田野へ進軍し、元親の支援もあって4月16日に三好軍を撃破し、長治を死に追いやる事に成功したのだった。

復讐の因果応報編集

だが、この報せに反発した三好存保は勝瑞城へ移動して兄の弔い合戦を行う事を決意。真之の陣営も1579年に井沢頼俊が討死した事で戦況は不利に傾く。また真之の支援を行っていた長宗我部家も同盟を結んでいた織田信長が三好存保を支援した事で不利となってしまう。


しかし1582年6月2日に信長が本能寺の変へ横死すると長宗我部家も息を吹き返し8月には三好存保を中富川の戦いを撃破する。存保はこの戦いで敗れた事により勝瑞城を失って讃岐虎丸城に撤退した。


真之はこれで三好家は攻めてこないだろうと思われた。しかしその矢先に再び阿波国を取り戻そうと三好軍が再び侵攻してきたのだった。真之は三好軍の攻撃を防ぐべく茅ヶ岡城へ籠城するも敗れて11月3日に自害して果てたのだった。享年44歳。


こうして真之の死を以って阿波細川家は滅亡した。


創作における細川真之編集

信長の野望編集

蒼天録以前のシリーズには何度か登場していたが、天下創世以降は登場せず。


戦国大戦編集

本作では長宗我部家所属で、名前の読みが「さねゆき」ではなく「まさゆき」となっている。

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