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野口冬長

のぐちふゆなが

野口冬長とは、四国地方の戦国武将。室町末期に中央を席巻した三好長慶の末弟として、他の兄弟と同様その勢力拡大に尽力し、阿波細川家内部の対立の末に戦死したとされる。他方で史料によってはその後の生存を示す記述も見られるなど、その事績については未だ謎が多く残されている。(生年不詳 - 1553年?)

概要編集

阿波細川氏家臣で、山城守護代を務めていた三好元長の五男として生まれる。兄に三好長慶三好義賢(実休)、安宅冬康十河一存がおり、所謂『三好四兄弟』の五番目に当たる。淡路松本城主。子に野口長助。

時期は不明だが、淡路水軍の有力氏族である管氏の末裔・野口氏に入嗣。野口肥前守則守(詳細不明)の養子となる。同じく淡路水軍の安宅氏に入嗣した三兄の冬康や、讃岐の十河氏に入嗣した四兄の一存と合わせて、三好氏の支配域拡大に貢献する。


長兄・長慶が畿内に支配基盤を確立していた事もあり、冬長は主に本州と四国の間を取り持ち、交流する役割を担っていたとされるが、天文22年(1553年)に次兄・義賢が主君の細川持隆を自害に追い込む(勝瑞騒動)と、これに反発した久米氏を始めとする阿波細川氏家臣が義賢を討たんと挙兵に及び、やがて両者は阿波の黒田鑓場にて衝突。この時義賢の援軍として冬長も手勢を率いて参陣し、合戦の末に討死したという(※)。


錯綜する事績編集

兄弟の中で早くに没し事績に乏しい事もあり、冬長に関しては特にその没した時期や、その後の動向を中心に不明な点が数多く残されている。


まず前述の鑓場合戦における最期について、『三好記』によればこの時淡路より援軍に駆けつけ戦没したのは野口則守(肥前守)という人物で、『淡路常磐草』ではこの則守、もしくは息子の弘宗のいずれかを冬長と同一人物としている事に拠るものである。


一方で冬長の後裔を称する、摂津原田村(現・大阪府豊中市)の庄屋に伝わっていた『野口家文書』によれば、「野口満五郎冬」なる人物が織田信長の重臣・原田(塙)備中守直正の養子となり、原田城に移りすんだとという記述も見られる。

原田氏は直正の天王寺合戦での討死により没落、冬永(もしくはその子孫)も武士を捨てて摂津梨井村(原田梨井村)に居住し、その系譜は庄屋として続いたという。但しこの満五郎冬永なる人物と、冬長とを明確に同一人物とする裏付けがなされている訳でない事にも留意されたい。


またこれとは別に、長兄・長慶の晩年に当たる永禄6年(1563年)の9月頃、長慶重臣の松永久秀より、長慶の様態を報告する手紙が菅若狭守なる人物の元に出されている。書状の内容や、『続群書類従』において冬長を若狭守と説明していた事から、この菅若狭守を冬長と同一視し、少なくとも永禄年間の前半までは冬長が生存していたと見る向きもある。

但しこれについても、書状が出されたのが永禄6年ではなく天文21年(1552年)、即ち冬長存命の頃であるとの見解もあり、必ずしも冬長生存を裏付けるものとは言い難いのが実情である(そもそも菅若狭守については安宅冬康の筆頭内衆であるとの見方が強く、冬長と同一人物とする見解にも疑問が残されている)。


・・・以上のようにとにかく史料が少ない上、史料によっては明らかな相違も見受けられるため、果たして冬長がどのような人物で、どういった功績を残したのか、令和年間に入った今なお定かではない。加えて兄たちがそれぞれ異なる個性と才能の持ち主だった事もまた、その地味さにより拍車をかけてしまっているのも実情である。

三好氏を題材にした軍紀『南海治乱記』では、三好氏の兄弟をそれぞれ、天下を取る器(長慶)、謀将(義賢)、勇将(一存)、仁将(冬康)と讃えているが、冬長は完全にスルーされている。近年刊行された三好氏にまつわる学術書においても、四兄の十河一存を末弟と位置づける形で、冬長の存在そのものについて一切触れられない事も少なくはない。

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