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赤松政秀

あかまつまさひで

赤松政秀とは、近畿地方の戦国武将。後述の通りこの名を名乗っていた武将が二名存在し、いずれも赤松氏の一門として西播磨の龍野を中心に勢力を有していた。
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概要編集

前述の通り、赤松政秀の名を用いていた武将は歴史上で2名存在する。

  1. 赤松政秀(宇野政秀)(応永28年(1421年)?-文亀2年(1502年))
  2. 赤松政秀(永正7年(1510年)?-元亀元年(1570年))

いずれも播磨(現・兵庫県)の西部に勢力を有していた龍野赤松氏(赤松下野守家)の当主であり、また両名とも官途に由来した「宇野下野守」の別名を称していた。便宜上この両名を区別する際、1を指して宇野政秀(宇野下野守)と呼びならわす事も多い。


1の赤松政秀編集

出自に関しては不明な点も多いが、赤松氏の支族に当たる宇野氏の出とされる。赤松氏の宗家は15世紀半ばの嘉吉の変で一時断絶の憂き目に遭っており、その再興を目的とした動きが度々起こっていた。

政秀の史料上での初出は享徳3年(1454年)、その赤松氏再興運動の一環である赤松則尚の挙兵に呼応しての軍事行動であるとされ、この時は則尚が山名宗全に敗れた事で政秀も逃亡・潜伏を余儀なくされるも、その後長禄の変を経て赤松政則を当主に据える形で再興が果たされると、政秀もまたその家臣団に連なる事となった。

同じく政則の家臣であった浦上則宗が、侍所所司代を兼任する形で在京のまま当主の補佐に当たっていたのに対し、政秀は応仁・文明の乱に乗じての赤松旧領の回復・統治を任され、特に播磨においては元来の赤松氏本拠だった事から、当地の民の多くの協力を得る形で僅か数日での奪回に成功。またこの旧領回復以外でも東軍の将の一人として、畿内各地を転戦し大内政弘畠山義就らの軍勢と干戈を交えた事もあった。


大乱終結後、播磨を巡って山名氏と赤松氏との間で対立が続く中、文明15年(1483年)に入ると山名氏の播磨侵攻が本格化。政秀もこの時赤松側の要衝であった福岡城の救援に向かうも、当主・政則が率いる本隊の大敗などもあり中途での撤兵を余儀なくされ、福岡城の陥落と領国における赤松氏の威信失墜という事態を招いてしまった。

この大敗を受け、浦上則宗ら一部重臣が政則の排斥と新たな当主擁立に動く中、政秀はそれに与せず静観を通し、やがて文明17年(1485年)に政則が幕府の後ろ盾を得て当主の座に復帰すると、政秀も再びその指揮下に加わった。程なく出家して高枕軒性喜(こうちんけんしょうき)と号し、守護代(郡代)としての任は息子の則貞に受け継がれた。


その後赤松宗家の当主の座が、早逝した政則から養子の義村に移ると、その養母である洞松院(政則の継室)や浦上則宗らが家中で専横を極めるようになり、これに反発する家臣らとの間で対立が発生し、家中が三分される事態にまで発展した。

この混乱の中にあって、政秀はすでに80に近い老齢であったものの事態の収拾に動き、抗争に敗れ主君・義村と共に逃れてきた則宗を匿う一方、自身も上洛して幕府からの停戦命令を引き出し和睦の締結に成功。東西取合合戦と呼ばれた一連の内部抗争を通して、自身と赤松下野守家の存在感を改めて示す格好となった。


2の赤松政秀編集

赤松宗家との対立編集

西播磨の龍野城を領する赤松氏一門・赤松村秀の子として生を受ける。父・村秀は前出の赤松政則の庶子に当たる人物で、政則の早逝後に家中の支持を得られず後継者候補から外されていたところ、1の赤松政秀の養子として迎えられたという経緯があったと伝えられている。

一方で村秀の出自についてはもう一つ、こちらも前出の赤松則貞の孫、すなわち1の政秀の曾孫であるという説も存在し、こちらの説では祖父の則貞を暗殺して龍野赤松氏を継承したとされる。


政秀は智勇に優れた武将として知られ、父・村秀が天文10年(1541年)に没すると龍野赤松氏の家督を継いで赤松宗家の再興に尽力。当主・晴政を廃し、その子である義祐を擁して浦上政宗が家中の実権を掌握する中、政秀は追放された晴政を庇護し、永禄7年(1564年)に浦上清宗(政宗嫡男)の婚礼の最中に奇襲をかけ、政宗親子を討滅せしめている。

このように宗家再興に尽力した政秀であったが、その宗家当主であった義祐との関係はお世辞にも良好とは言い難く、晴政の逝去に伴う一時的な和睦こそあったものの、最終的には再び袂を分かって対立関係となった。加えて西播磨には赤松宗家寄りの小寺政職が勢力を有しており、さらに小寺氏と同盟関係にあった備前の浦上宗景(政宗の弟)も兄・政宗の旧領確保を画策するなど、龍野赤松氏の置かれた状況は厳しいものがあった。


青山・土器山の戦い編集

こうした不利な状況を打開すべく、政秀は東播磨の別所安治と組んでこれらの勢力と対抗する一方、当時上洛を果たしたばかりの足利義昭織田信長との同盟を強化すべく、自身の娘を義昭の侍女として仕えさせるべく京都へ送る、といった工作も行っている。

しかしこの動きを、政秀が播磨守護職の簒奪を企図したものと見た義祐は、小寺政職に命じて京都へ送られる途中の政秀の娘の身柄を拘束させる一方、浦上則宗に龍野攻めを要請し挟撃を画策。(名目上とはいえ)主家の救援という大義名分を得た浦上軍の攻勢の前に、政秀は窮地に追い込まれる格好となった。

この劣勢を跳ね返すため、政秀は義昭に対して援軍を要請し、これを受けて信長傘下の池田勝正ら摂津衆が援軍として派遣された。同盟を結んでいた別所氏からの派兵や、宗景と同盟関係にあった宇喜多直家の謀反などもあり、浦上軍を一時的に撤退に追い込む事に成功すると、優勢に転じた政秀は反撃を企図し、手始めに小寺氏の勢力下にあった姫路城の攻略に乗り出す事となる。


この時姫路城の守備を任されていたのが、小寺氏家臣の黒田職隆孝高親子であった。この黒田親子にしても先の浦上親子討滅の際、清宗に嫁いだ職隆の娘(志織姫、実娘ではなく養女とも)が巻き添えを食って落命したとされ、政秀に対しては単なる敵対勢力の域を超えた遺恨を抱いていたのである。

永禄12年(1569年)5月に政秀が姫路城攻略のため出陣すると、黒田軍はわずか300と寡兵であるのに加え、城の防備にも不安を抱えていた事から籠城ではなく野戦を選択。この時は孝高率いる軍勢の奇襲もあり、赤松軍も一時撤退に及んでいる(青山の戦い)。

とはいえ赤松軍の優位がこの一戦で揺らぐ訳もなく、早くも翌月に再出兵した政秀は総勢3000と、黒田軍の10倍もの兵力差をもって優位に戦局を展開。赤松軍の夜襲もあって黒田軍は甚大な打撃を受けるも、英賀の三木通秋の援軍によって黒田軍が窮地を脱した事が、その後の事態の推移に大きな影響を与える事となる。

自軍の被害甚大ながらも、戦の長期化に伴うさらなる不利の回避と、短期決戦による戦局逆転を狙う孝高は、前夜とは逆に自分たちが夜襲に打って出る事を決断。日中の戦闘の推移もあり、油断を生じさせていた赤松軍にとっては正しく予想外の反撃を喰らう事となり、混乱を来した赤松軍は有力な家臣を多数討ち取られるなど、這う這うの体で敗走を余儀なくされた(土器山の戦い)。


この大番狂わせによる軍事力の低下に加え、織田からの援軍も諸事情により播磨より撤退し、さらには浦上軍による再度の侵攻も重なった事で、進退窮まった政秀はこれ以上の抵抗を断念し浦上氏に降伏。本拠である龍野城こそ引き続き保持したものの、龍野赤松氏の勢力圏の多くは浦上氏の手中に収まり、ここに西播磨における覇権を喪失するに至った。


突然の死とその後の龍野赤松氏編集

それから僅か1年後の元亀元年11月12日(1570年12月19日)、政秀は再起の機会に恵まれぬまま急死してしまう。死因については諸説あり、最も有力とされているのは浦上氏の手のものによる毒殺という説であるが、一方で自刃して果てたとも言われている。

政秀の死の直後に長男の広貞も亡くなっており、龍野赤松氏の家督は次男の広秀(広通、斎村政広)が継承。織田氏の傘下や蜂須賀正勝の与力などを経て、最終的に豊臣秀吉の直臣に取り立てられるも、関ヶ原の戦いでの去就とその際の不手際が原因で戦後に切腹を命じられている。三男の祐高も関ヶ原の後に浪人となり、やがて大坂の陣では大坂方として参戦、戦後播磨に逃れるも衆寡敵せず自刃し、大名としての龍野赤松氏もこれをもって滅亡となった。


関連タグ編集

赤松政則 応仁の乱

浦上政宗 浦上宗景 黒田官兵衛

団時朗 - 2014年放送のNHK大河ドラマ軍師官兵衛』にて、2の政秀を演じた

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