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浦上政宗

うらがみまさむね

浦上政宗とは、中国地方の戦国武将。赤松氏の有力家臣として、対立と和睦を繰り返しながら主家を凌ぐ勢力にのし上がるも、弟の宗景との抗争の末に衰退。小寺氏との同盟で再起を図るも謀殺された。(生年不詳-1564年)
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生涯編集

浦上氏の台頭(前史)編集

浦上氏は元々播磨の赤松氏の有力家臣の一つであり、浦上則宗の代には赤松政則をその幼少の頃より支え、守護代や侍所所司代を務めるなど家中でも重きをなしていた。しかし15世紀末に政則に代わって赤松義村が赤松氏の家督を継ぐと、勢力伸長著しい浦上氏を次第に警戒し出すようになり、時の浦上氏当主・浦上村宗(則宗の姪孫)を家中の政務から外したり、他の宿老との軋轢を理由に出仕を差し止めるなど、あからさまな冷遇に及ぶようになった。

この事を不服とした村宗は自領にて蜂起、義村に真っ向から反旗を翻した。度重なる武力闘争の末、主君・義村を圧倒した村宗は、その嫡子の政祐を傀儡の当主として据え、家中の実権を掌握。またその後も復権を狙った義村を幽閉の末暗殺に及んだ他、自らが当主に据えた政祐でさえも美作に追いやった事もあるなど、赤松家中において村宗はさらなる専横を振るい続けたのである。


享禄年間に入ると、村宗は細川氏の内部抗争に絡んで前管領・細川高国を支援し、これと対立する細川六郎(晴元)らと干戈を交えていた。ところが享禄4年(1531年)、摂津中嶋での合戦で思わぬ敗北を喫し、村宗も敢え無く討死してしまう(大物崩れ)。村宗らの援軍として参戦しながらも、親子二代に亘る遺恨を晴らすべく六郎側と内通していた主君・政祐の裏切りによるものであった。


主家との対立編集

政宗はその村宗の長男に当たり、幼名を虎満丸という。かつては父・村宗が死去した時点で既に成人していたというのが通説とされていたが、近年の研究から1520年代の生まれであり、この時点では未だ幼年であったと考えられている。

父の死を受け、虎満丸は幼少の身ながら家督を相続し、当初の数年間は一族の浦上国秀の後見を受けた。前述の経緯から父の仇に当たる主君・政祐とは当初より激しく対立し、西播磨の国人らと共に度々抗争に及んでいたが、天文6年(1537年)に出雲の尼子詮久(晴久)が山陽道への侵攻を開始すると、政祐と和睦しこれに対抗した。

しかし尼子方へ転じた国人衆の裏切りに遭い、敗れた虎満丸と政祐は一時堺へと逃れ雌伏を余儀なくされる。天文9年(1540年)には政祐が将軍・足利義晴から偏諱を受けて晴政に改名、これに伴い虎満丸も晴政より一字を拝領する形で政宗と名乗るようになった。


やがて吉田郡山城の戦いと前後して、播磨より尼子軍が撤退すると、幕府の助力を得て天文11年(1542年)に播磨へと復帰し、その後2年がかりで播磨・備前の支配権を回復するに至る。その過程で赤松家中の指揮権を占めるようになった政宗は、戦後は筆頭家老に昇格し晴政の奉行人と連署で赤松氏の命令を伝える奉書を発給するなど、家中における権力と存在感をさらに強めていった。

一方で予てより浦上氏寄りであった備前の松田氏、それに税所氏らとの縁組を通じ、播磨だけでなく備前での勢力の強化と、主家からの独立への基礎を固めていく事となる。


弟・宗景との抗争編集

しかし天文20年(1551年)、尼子晴久による備前への再侵攻が始まると、それへの対処を巡って弟の宗景との間で見解の相違が浮き彫りとなっていく。この時松田元輝らと同盟し尼子への従属を決した政宗に対し、宗景は安芸の毛利元就三村家親を初めとする備中衆など、反尼子勢力と結んでこれに対抗する姿勢を示した。


この両者の対立はやがて備前国内を二分しての武力闘争にまで発展、政宗方には浮田国定(宇喜多直家の従祖父)らがつき、また尼子から派遣された大軍が宗景方を圧迫するなど当初は政宗方優位に戦局は推移していたが、宗景方の反攻により天神山城などでの戦いで敗北を重ねるなど、形勢は徐々に覆されていく事となる。加えて、旧主であった赤松晴政も復権を狙って反政宗の姿勢を鮮明に打ち出すなど、四面楚歌に近い状態にまで追い込まれた政宗は次第に勢力を減衰させていく事となった。

頼みの綱としていた尼子からの支援も、永禄4年(1561年)に晴久が急死した事で当てに出来なくなってしまい、結果として幕府の仲裁の元で毛利氏との和睦を模索するようになるが、その一方で起死回生の機会も虎視眈々と狙っていた。


再起への道と暗殺編集

永禄元年(1558年)、前述した毛利との和睦を進める一方で、同時期に小寺政職赤松義祐(晴政嫡男)を擁してクーデターを起こすとこれに加担、晴政を家督の座から追放せしめている。しかし敗れた晴政も赤松氏一門・赤松政秀の元に身を寄せ、結果として赤松の惣領家の分裂という新たな火種を生んだ。

一方で長らく対立していた弟・宗景とは、永禄6年(1563年)に和睦が成立。さらに小寺氏配下の黒田職隆との縁組を通じて勢力の立て直しを目論む。ところがその次男・清宗と職隆の娘(志織、実娘ではなく養女とも)の婚礼が執り行われる最中、赤松政秀の軍勢により居城の室山城を急襲され、政宗も清宗らと共に討ち取られてしまった。時に永禄7年1月11日(1564年2月23日)の事であった。


長男の忠宗もこれに先立って政宗の死後、辛くも難を逃れた三男・誠宗がその後を継いで勢力拡大に向けて動くも、その実力を恐れた叔父・宗景によって永禄10年(1567年)に暗殺されている。さらにその遺児である久松丸(直宗)も小寺氏の元を経て、宇喜多直家により対宗景の旗印として担ぎ上げられた末に殺害されたと伝わっており、一時隆盛を極めていた浦上宗家もここに断絶の憂き目に遭う事となった。


各メディアにおける浦上政宗編集

  • 信長の野望

弟と同じく覇王伝より初登場。備前の大名として登場している弟と異なり赤松家臣として登場。


嵐世記以降は弱体化して弟以下となるも、天道で再登場した際には武力が80と高く設定された。(次作・創造では再度弱体化)また天道のPKシナリオ・「信長誕生」のみで政宗が大名となっている浦上家を見る事が出来る。


また初期シリーズでは上記の説明に基づいて1500年代初期に誕生しているが、天道以降は1525年生まれとして修正された。


関連タグ編集

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