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浦上政宗

うらがみまさむね

浦上政宗とは備前の大名・浦上宗景の兄で赤松家臣。主家の勢力を圧倒して独自の勢力を立てるなど暗躍を図るが、後に意見対立から宗景と争って衰退。黒田家との婚約で再起を図るも赤松政秀に滅ぼされた。(????-1564年)
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政祐との対立

浦上家は元々赤松家に仕える家臣であったが、赤松義村の代にて村宗が謀反を起こして義村を幽閉に追いやった挙句、暗殺している。政宗はその村宗の長男で弟に浦上宗景がいる。幼名:虎満丸。

通説では父・村宗が死亡した1531年の時点では既に成人していたと思われていたが、近年の結果では父・村宗が死亡した1531年の時点ではまだ幼少の身だったと伝わる。

1531年に父・村宗が大物崩れで戦死すると一族の国秀の後見を7年間受ける。当初は父の敵でもあった赤松政祐と折り合いが悪く争いが絶えなかった。しかし1538年に赤松領に尼子晴久が侵攻して来ると政祐と和睦して尼子軍と戦った。

しかし尼子に従う意思を示す国人衆の裏切りに遭って敗北し、1539年には政祐と共に堺まで逃亡。翌年には政祐が将軍・足利義晴から偏諱を受けて晴政に改名すると自身も拝領して政宗と名乗った。

播磨復帰と権力掌握

やがて尼子晴久が1541年に毛利元就を攻めて敗北すると、幕府の助力を得て播磨への復帰に成功。この功績により晴政により筆頭家老に昇格し、晴政の奉行人と連署で赤松氏の命令を伝える奉書を発給するなど活躍した。

しかし父の村宗同様に赤松家の権力を握った事となり、やがて彼もまた独自の勢力を立てようと画策。宝津城を拠点として備前西部の松田氏、税所氏らと縁組。

赤松家は政宗によって踊らされているのに過ぎず、結果的に後の騒乱に繋がる事になった。

意見対立

1551年には尼子晴久が再度備前に攻め入った際、政宗は尼子家への同盟を図ろうとした。しかし弟・宗景がこれに反発した事で備前の覇権を賭けて兄弟による大合戦が始まった。政宗は尼子晴久や金川城主・松田元輝や砥石城主・宇喜多国定(宇喜多直家の祖父・能家の異母弟)と結び、宗景は毛利元就・三村家親を初めとする備中衆と結んで対抗した。

当初こそは優勢ではあったが、次第に追い詰められる。しかも政宗の傀儡である事に気づいた晴政に攻められて三石城を奪われるなど自身の勢力は日に日に弱体化。この一方で弟の反対を押し切って尼子家と同盟し、1560年には弟・宗景が攻め入ると晴久の助力で撃退に成功した。

赤松家傀儡化と政秀の襲撃

後に政宗は自身を裏切った晴政を逆恨みし、復讐と言わんばかりの追放と晴政の嫡男・赤松義祐を無理矢理赤松家の当主として仕立て上げて完全に赤松家を操る事に成功する。

だが、晴政は赤松家一門・赤松政秀(赤松政則の庶子・赤松村秀の子)に助力を求めた事で赤松家は本家と龍野の2家に分かれる事となってしまい、新たな火種を生んだ。一方で長らく対立していた弟・宗景とは1563年に和睦に成功し、更に播磨の豪族である小寺政職の配下であった黒田職隆の娘・志織と実子・清宗との婚約で再度勢力を立てようとした。

しかし1564年に志織と清宗の婚礼に参列の最中に突如として赤松政秀を総大将とした赤松軍の襲撃に遭い、一家揃って戦死した。

辛くも逃れた三男・誠宗が父の後を継いで勢力を率いるが、その実力を恐れた宗景によって後に暗殺された。

各メディアにおける浦上政宗

  • 信長の野望

弟と同じく覇王伝より初登場。備前の大名として登場している弟と異なり赤松家臣として登場。

嵐世記以降は弱体化して弟以下となるも、天道で再登場した際には武力が80と高く設定された。(次作・創造では再度弱体化)また天道のPKシナリオ・「信長誕生」のみで政宗が大名となっている浦上家を見る事が出来る。

また初期シリーズでは上記の説明に基づいて1500年代初期に誕生しているが、天道以降は1525年生まれとして修正された。

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浦上宗景

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