曖昧さ回避
概要
亀山社中結成
慶応元年閏5月(1865年6月 - 7月)、勝海舟らによって作られた海軍士官養成機関である神戸海軍操練所が閉鎖したことに伴い、薩摩藩や商人の援助を得て長崎の亀山(現在の長崎市伊良林地区)において海援隊の前身となる「亀山社中」が結成された。
当初は貿易を行い交易の仲介や物資の運搬等で利益を得ながら、海軍、航海術の習得に努め、その一方で国事に奔走していたとされている(これは坂本龍馬が神戸海軍操練所時代に考えていた実践でもある)。
亀山社中は、グラバー商会(スコットランドの貿易商人トーマス・グラバーの長崎代理店)などと取引し、武器や軍艦などの兵器を薩摩藩名義で購入、長州藩が薩摩藩を経由して武器を購入する仲介を果たしたとされてきた。
そして慶応2年(1866年3月)、薩摩の西郷吉之助と長州の桂小五郎を代表とする薩長盟約の締結に大きな役割を果たしたとされる。
同年の5月に鹿児島に入港したユニオン号を譲渡先の長州藩に届けることになり、ここに坂本龍馬が船長として乗り組み、6月4日に出港、14日に下関に到着する。この頃既に第二次長州征伐が開戦しており、長州丸の「乙丑丸」となったユニオン号は、17日に高杉晋作率いる長州艦隊に協力して門司攻撃に参加し長州の勝利に大きく貢献する(このユニオン号運搬を境に坂本龍馬は「土佐脱藩浪士グループを含む旧勝門人グループや旧幕府水夫」らの統率に乗り出して「龍馬社中」と呼べる存在となっている)。
海援隊に改名
慶応3年(1867年)4月には坂本龍馬の脱藩が許されて隊長となり、土佐藩に付属する外郭機関として「海援隊」と改称される。
海援隊は土佐藩の援助を受けたが、基本的には独立しており、脱藩浪人、軽格の武士、庄屋、町民と様々な階層を受け入れ「海援隊約規」には「本藩を脱する者、および他藩を脱する者、海外の志のある者、この隊に入る」「運輸、射利、投機、開拓、本藩の応援」とあり、射利つまり利益の追求が堂々と掲げられていた。会社と海軍を兼ねた組織であり、航海術や政治学、語学などを学ぶ学校でもあった。
いろは丸沈没事件においては、紀州藩に賠償金を請求する。また同年7月に土佐藩士中岡慎太郎が陸援隊を結成し組織した。
龍馬の死後
しかし、同年11月15日(12月10日)、龍馬が京都の近江屋で中岡とともに暗殺されると(近江屋事件)、求心力を失い分裂して戊辰戦争が始まり、長岡謙吉らの一派は天領である讃岐国の小豆島などを占領、菅野覚兵衛らも佐々木高行とともに長崎奉行所を占領し、また小豆島も治めた。この他にも同年12月7日(1868年1月1日)に隊士の沢村惣之丞、陸奥宗光ら16名が京都の天満屋で紀州藩士三浦休太郎を襲撃し護衛を行ってた斎藤一ら新撰組と戦っている(天満屋事件)。
慶応4年4月土佐藩より長岡が海援隊長に任命されたが、同年閏4月27日(6月17日)には藩命により解散される。そして土佐藩士の後藤象二郎は海援隊を土佐商会として、後に岩崎弥太郎が九十九商会・三菱商会・郵便汽船三菱会社(後の日本郵船株式会社)・三菱商事などに発展させたのだった。
主な海援隊士
坂本龍馬 | 土佐藩出身、海援隊隊長。薩長同盟や大政奉還に尽力、後に近江屋で暗殺される。 |
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沢村惣之丞 | 土佐藩出身。海援隊士で龍馬の仇を討つため天満屋で新撰組と戦う。のち絡んできた薩摩藩士を斬ったことで責任を取り自刃した。 |
近藤長次郎 | 土佐藩出身、海援隊士。生家は龍馬の家の近くで饅頭屋をやっていた。長州藩の勧めで英国留学する予定であったが他の同士から脱退をとがめられ、自刃した。 |
長岡謙吉 | 土佐藩出身。龍馬亡き後、海援隊二代目隊長となるが病で37歳の若さで亡くなる。 |
陸奥陽之助 | 紀伊(紀州)藩出身、海援隊士。維新後政治家として活躍する。 |
新宮馬之助 | 土佐藩出身で海援隊士。維新後は浦賀にあった海兵団に所属し、海軍大尉に出世する。 |
菅野覚兵衛 | 土佐藩出身で海援隊士。維新後海軍少佐に出世。 |
坂本直 | 土佐藩出身。龍馬の姉の子。初名は高松太郎。龍馬の死後、坂本龍馬家の家督を継ぎ龍馬と謙吉死後旧海援隊のリーダーになった。 |
佐々木高行 | 土佐藩出身で上士。戊辰戦争において海援隊の指揮を執った。 |
など
運用船
余談
- よく坂本龍馬が結成したとされているが結成当時龍馬は長崎に不在だった可能性があり、実際に結成に立ち会ったのは近藤長次郎や高松太郎らと伝わっている。
- また「亀山社中」という名称も当時付けられたものではなく、「社中」という名乗りが見られるだけであったそうな。
- 海援隊旗がどっからどう見てもヨーロッパ諸国のオーストリアの国旗に似ている。(ちなみに海援隊旗は二曳(にびき)と呼ばれていた)