生没年 1853(嘉永6)年~1910(明治43)年
官位 従四位下 左近衛権少将→正二位
初名 松平昭徳
水戸藩9代藩主徳川斉昭の十八男で母は万里小路睦子。異母兄に十五代将軍慶喜。
経歴
1864(元治元)年に同母兄の松平昭訓の死去に伴い御所守衛に就任。同年に起きた禁門の変、天狗党の乱の鎮圧に参加し、その功により従五位下 侍従・民部大輔に叙される。
1866(慶応2)年、14代将軍家茂の死後に院号の「昭徳院」と被ることが不敬であるとして、諱を「昭武」に改める。同年空席となっていた清水徳川家当主となる。
1867(慶応3)年に将軍となった兄・慶喜の名代としてパリ万博に派遣された。後にスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスを渡りフランスに戻るが、1868(明治元)年に幕府滅亡に伴い帰国。またフランス帰還時に長兄で水戸藩主だった慶篤が死去したことが知らされ、帰国後に水戸藩第12代藩主となった(清水徳川家は1870(明治3)年に異母弟の篤守が相続)。戊辰戦争では函館の戦いに参加、版籍奉還後に水戸藩知事となる。
1876(明治9)年に再びフランスへ留学、1881(明治14)年に帰国した。
1883(明治16)年に養子としていた慶篤の長男・篤敬に家督を譲り隠居。1892(明治25)年に次男の武定が、昭武の功績により子爵に叙され、「松戸徳川家」を創設した。
1910(明治43)年に死去。