生没年 1832(天保3)年~1868(慶応4)年
官位 従三位 権中納言
水戸徳川家9代当主・徳川斉昭の長男。母は正室の吉子女王で、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の同母兄。
経歴
1844(弘化元)年に父斉昭が幕命によって隠居謹慎したため家督を相続するが、幼少のため一族の高松松平家・松平頼胤、守山松平家・松平頼誠、石岡松平家・松平頼縄が後見人となる。
1849(嘉永2)年に斉昭が藩政に復帰したが、1858(安政5)年の安政の大獄では不時登城したため登城停止の処分を受ける。1864(元治元)年に天狗党の乱が起き鎮圧に動くが、諸生党に阻まれてしまい乱後に藩政を諸生党に握られる結果となった。
1868(慶応4)年1月、朝廷より「諸生党を粛正し、藩政を正常化せよ」との勅書(除肝反正)が下され、3月に水戸へ戻るが、既に諸生党は水戸を脱出し、到着した天狗党員による報復で水戸は荒野と化した。
その渦中の4月15日に慶篤は急死し、跡を異母弟の昭武が継いだ。
当時昭武は慶喜の命でヨーロッパへ赴いており、また慶篤には昭武の2歳下になる嫡男・篤敬がいたが、篤敬は諸生党が政権を握っていた時代の水戸で育ったため、藩士たちからの反対が多かったためとされる。