徳川綱條
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とくがわつなえだ
徳川綱條とは江戸時代中期の大名。
父の頼重は、宗家である水戸徳川家初代当主・頼房の長男であり、元々2代当主になるべき人物だったが、諸々の事情により同母弟の光圀が跡を継ぐことになった。
それを憚った光圀が、自身の子である頼常を頼重の養嗣子として送り、頼重の長男である綱方を自身の養嗣子としてもらい受けたが、綱方が若くして亡くなったためその弟である綱絛を新たな養嗣子としてもらい受けた。
1690(元禄3)年、光圀の隠居により水戸藩主となる。
1701(元禄14)年に表高が28万石から35万石となったが、実際を伴わない形式だけのものだったため藩の財政は逼迫した。そこで元駿河代官の家臣だった清水仁衛門、美濃出身の浪人・松波勘十郎を登用し藩政改革を行った。
松波が主導した改革の内容としては綱紀粛正や経費節減、厳しい年貢増徴、他国からの商人招致と運河掘削による商業活性化などだった(宝永の新法)が、労役や年貢増徴に不満を持った領民たちが、1708(宝永5)年に改革の中止を求めて江戸の水戸藩邸に直訴する騒動となり、翌6年に改革は中止、清水は追放、松波は投獄(1711年に獄死)される結果となってしまった。
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