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滋子

しげこ

平家の姫君。後白河上皇の妃で高倉天皇の母。
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フルネームでは「平滋子」だがpixivでは「滋子」での登録が多い

概要

平滋子(1142-1176)は、平安時代末期の女性である。父は桓武平氏高棟王流の兵部権大輔・平時信、母は中納言・藤原顕頼の娘。異母姉に平清盛の妻平時子、異母兄に名言「平家にあらずんば人にあらず」で定評がある平時忠がいる。後に後白河上皇の女御となり、憲仁王(後の高倉天皇)の母となった。院号は建春門院。身分が低かったので皇后などにはなれなかったが、上皇の寵愛は誰よりも深かったという。

生涯

幼少時の1149年に父時信を失いその前年には祖父顕頼も失っている。その後、後白河上皇の姉上西門院統子内親王に仕える。

後白河上皇の寵愛をうけるようになった時期は不明だが、1161年に上皇との間の子、憲仁王が生まれている。これは陰謀好きで定評がある兄の平時忠には出世のチャンス、後白河上皇の実子ながら不仲であった二条天皇にとっては地位を脅かす脅威となったらしい。皇子誕生からわずか10日あまりにして平時忠、平教盛坊門信隆藤原成親等が憲仁王を皇太子にしようとした陰謀により官位を追われ、ついでに平時忠は二条天皇を呪詛した科で翌年出雲に配流されている。二条天皇だって崇徳上皇と同じ目には遭いたくなかったろうし、仕方ないね

しかし1165年に二条天皇が崩御する(その一ヶ月ほど前に実子六条天皇に譲位して上皇となっていた)。憲仁王は同年に親王となり、翌年(当時5歳)には甥でありまだ1歳であった六条天皇の皇太子となる。カオス。滋子も従三位・女御となった。
皇太子傅(皇太子の側近トップ)は後の関白九条兼実、皇太子の乳母は武家の棟梁平重盛の妻藤原経子であり、滋子母子には公武の強力な後援がつく。

芍薬の姫


続いて1168年には憲仁王が即位して高倉天皇となり、皇太后の称号を得た滋子は、姉の嫁ぎ先平家一門とも連携して絶大な政治力を持ったらしい。『愚管抄』1167年の記録によると「除目叙位(朝廷人事)の書類は、最後に滋子が任官者の名前だけを書き入れていた」とのこと。1167年9月、1169年10月と滋子は後白河上皇と仲良く熊野詣に出かけ、その後の後白河上皇の鳥羽北殿や福原の都等へのお出かけにもまず離れず同行しており、一連の動きの背後に後白河上皇の意向があったことも確かなようだ。さらについでに兄の平時忠に触れると、この頃(1169年)延暦寺と対立して再び出雲国に配流される云々、これまたまたお前かであったことも確かなようだ。

滋子は1176年に病に倒れ、後白河法皇が十楽院に仏堂を立て法勝寺で千僧読経を行うなど奔走し、平清盛も福原から駆けつけるが甲斐なく世を去った。滋子の死によって後白河法皇及び院近臣と平家一門の関係は重要な調停役を失い、隙間風が吹き、そして平家一門の没落へとつながっていった。

評価

滋子におまかせ


同時代人たちの評価は驚くほど高かった。まずは美貌、「何という美しさ、この世にこれほど美しい人がいらっしゃったとは(『建春門院中納言日記(たまきはる)』)」「言葉にできぬほど美しく若々しかった(『建礼門院右京大夫集』)」ここまで絶賛されている人も珍しいかも。

人柄についても「比類なく立派な心構えのお方であった(『建春門院中納言日記』)」また自分の栄耀栄華ぶりについてどう思っていますかと人に問われた時は「前世の行いの結果に過ぎないので、どうとも思っておりません(『古今著聞集』)」『愚管抄』は滋子を摂関政治時代理想の皇后・国母像の再来に例えている(五味文彦『平清盛』)。また自戒をこめて語っていたという口癖は「女に必要なのは心がけ、親や周囲の力ではありません、しっかりした心を持つことです(『建春門院中納言日記』)」確かに何というか・・・強い心を持つ!そのためには、心の根!お前も強い根っこを持て!

ここまで俺の妹がこんなに可愛いわけがないだと、平時忠お兄ちゃんがグレる気持ちも分からんでもないね。いずれにせよ平滋子は、後白河上皇と平家政権双方を支える重要な存在であったことには間違いなさそうだ。なお彼女の子は高倉天皇であるが、その子つまり孫が後鳥羽天皇、玄孫は後嵯峨天皇となり、滋子の血筋は現皇室の祖先ともなっている。

関連項目

平安時代 平家
後白河上皇
平清盛(大河ドラマ)

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