永久元年(1113年)~ 文治2年7月25日(1186年8月11日)
平清盛の側近といわれる平家家臣。父親は諸説あり、平盛康とも言われる。いずれにしても平正度(平忠盛の曾祖父)に繋がる一族ではあり、子の季衡の系統ならば伊勢氏のちの後北条氏とも祖先を同じくする。
保元・平治の乱で戦功をあげ、検非違使や左衛門尉に任じられ、平家納経にも関わった。
東宮の主馬首を兼務したため「主馬判官」と呼ばれるようになる。
平家貞の死後、平家第一の郎党として平家の家令(執事)となった。
鹿ケ谷の陰謀を密告した多田行綱の応対をしたが、激怒する清盛を抑える為、平重盛に伝えたという。
ちなみに清盛は盛国の屋敷で清盛は亡くなっている。その後、木曾源氏や鎌倉源氏の攻撃に耐えられず平家は都落ちし、高齢の盛国も従った。
長男の平盛俊は一ノ谷の戦いで討たれ、盛国自身は壇ノ浦の戦いで捕虜となり、鎌倉に送られた。
鎌倉で盛国は断食をし、餓死によって自害した。享年74歳。源頼朝は彼の終生の忠義を称えたという。
親族
- 平盛俊…子。兄弟順は不明だが盛国の嫡子。越中前司(前の越中守)の呼び名で知られた。平家でも指折りの剛将だったが一ノ谷の戦いで源氏方の猪俣範綱(小平六)に騙し討たれた。
- 平盛久…八男。通称は主馬八郎左衛門。異説もあるが壇ノ浦の戦い後に捕らえられ、鎌倉で斬首されそうになったが命拾いし、源頼朝の家臣となった。
- 平盛嗣…孫。盛俊の次男。越中次郎兵衛と呼ばれた。父と同じく勇将だったが壇ノ浦の戦い後、自害を善しとせずに逃亡。しかし、1194年に捕縛され由比が浜で斬首された。