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源経基

みなもとのつねもと

源経基とは、平安時代中期のもと皇族、武将。経基流の清和源氏初代。
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人物

父は清和天皇の第6皇子貞純親王。一説では陽成天皇の皇子元平親王の皇子という説もある。
別名は六孫王

生年について

『尊卑分脈』では応和元年(961年)に45歳で卒去したとある事から、逆算して生年は延喜17年(917年)生まれとなる。また、『勅撰作者部類』には天徳2年(958年)に同じ45歳で卒去したとある事から延喜14年(914年)生まれとされているが、いずれも長男・満仲より後に生まれた事になる。『系図纂要』には寛平9年(897年)2月12日生まれとあり、もしこの説が正しければ15歳の時に満仲を儲けた事になり妥当にも思えるが、今度は、2世源氏でありながら40歳をすぎても五位にも叙せられなかった事になり不自然であるほか、同書は幕末期の編纂物であり単に矛盾に気づいた系図家などが手を加えた産物である可能性があるから、通常の歴史学の手法による限りこれを根拠とすることはできない。その他、『諏訪家譜』では寛平2年(890年)2月13日生まれ、『一本武田系図』では寛平5年(893年)6月10日生まれともされている。清和源氏の祖でありながら歴史の表舞台に登場したのが僅か7、8年に過ぎない事もあって正確な生没年は未詳である。

先述の藤田佳希は同論文で、貞純親王の没年と子の源満仲の生年から、遅くとも延喜元年(901年)には生まれていたと計算した。

経歴

太政大臣藤原忠平の治世下の承平8年(938年)、武蔵介として現地に赴任する。同じく赴任した武蔵権守・興世王と共に赴任早々に検注を実施すると、在地の豪族である足立郡司で判代官の武蔵武芝が正任国司の赴任以前には検注が行われない慣例になっていたことから検注を拒否したために、経基らは兵を繰り出して武芝の郡家を襲い、略奪を行った。

この話を聞きつけた下総国平将門が私兵を引き連れて武芝の許を訪れると、経基らは妻子を伴い、武装して比企郡の狭服山へ立て籠もった。その後、興世王は山を降りて武蔵国府にて将門・武芝らを引見したが、経基は不服であるとしてなお山に留まった。府中では双方の和解が成立して酒宴が行われていたが、その最中に武芝の兵が勝手に経基の営所を包囲する。経基は将門らに殺害されるものと思い込み、あわててへ逃げ帰り、将門・興世王・武芝が謀反を共謀していると朝廷に誣告した。しかし将門らが承平9年(939年)5月2日付で常陸下総下野・武蔵・上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書を藤原忠平へ送ると、将門らの申し開きが認められ、逆に経基は讒言の罪によって左衛門府に拘禁された。

天慶2年(939年)11月、将門が常陸国府を占領、その後も次々と国府を襲撃・占領し、同年12月に上野国府にて「新皇」を僭称して勝手に坂東諸国の除目を行うと、以前の誣告が現実となった事によって経基は晴れて放免されるばかりか、それを功と見なされて従五位下に叙せられた。その後、征東大将軍藤原忠文の副将の一人に任ぜられ、将門の反乱の平定に向かうが既に将門が追討された事を知り帰京。天慶4年(941年)に追捕凶賊使となり、小野好古とともに藤原純友の乱の平定に向かうが、ここでも既に好古によって乱は鎮圧されており、純友の家来 桑原生行を捕らえるにとどまった。武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めた。

晩年、臣籍降下を命じられたことに憤慨していたというが、同時代の藤原忠平の日記『貞信公記』の天慶2年(939年)3月3日付に「源経基、武蔵の事を告げ言う。」と記されているのもあり、経基が果たして皇族であった時期があったかどうか疑問視もされている。ただしこの記述については、忠平の子・藤原実頼が抄録した際に源姓を書き入れたとする説もある。(961年)応和元年11月10日旧暦(12月25日)死去。享年不明。

経基の子孫


関連項目

源氏 皇族 平将門 藤原純友 源頼朝 源義経(義経の経は経基の経が由来) 鎮守府将軍

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