概要
生 没:保延元年(1135年) - 正治2年4月26日(1200年6月9日)
別 名:藤九郎(通称)、蓮西(法号)
役 職:上野奉行人、三河守護、十三人の合議制
安達氏の祖にして、源頼朝の流人時代からの側近として知られる武将・御家人。
奈良後期の公卿の一人・藤原魚名の末裔を称しており、実際に安達の名字を名乗るようになったのも盛長の晩年の頃からの事とされる。名字の由来を同じくするとされる足立遠元は甥に当たり、この遠元も盛長と同様に十三人の合議制の一員となっている。
生涯
小野田兼広が父と伝えられているが、盛長以前の系譜については錯綜しており、未だその出自については確定を見ていない。
源頼朝の乳母である比企尼の娘を娶っていた縁から、頼朝が伊豆で流人の身であった頃より非公式にではあるが従者として仕えており、宮仕えをしていた妻の存在もあって京との伝手も多く、頼朝が中央の情勢を知る一助となったと見られている。
治承4年(1180年)の頼朝の挙兵時にもこれに付き従い、前後して千葉常胤を始めとする各地の坂東武者の元へ使者として赴き、彼らの助力を取り付けるに至っている。鎌倉に本拠をおいた頼朝の勢力が確立を見た後も、元暦元年(1184年)頃には上野奉行人に任じられた他、文治5年(1189年)の奥州合戦では新恩として陸奥安達郡と出羽大曽根郡を与えられるなど、引き続き頼朝側近として信頼を寄せられており、頼朝が私的に甘縄の盛長邸を度々訪れた事も記録に残されている。
正治元年(1199年)、頼朝が逝去すると出家し蓮西と号するが、その後も引き続き幕政に関与しており、同年4月には2代将軍・源頼家の親政に代わって、有力御家人13人による「十三人の合議制」が確立。盛長も北条時政ら宿老とともにこれに名を連ねた。
翌正治2年(1200年)に死去、享年66。盛長自身は生涯無官であったが、嫡男の景盛が秋田城介となり、以降鎌倉末期に至るまでこれを代々世襲している。また景盛以降の安達氏は、北条得宗家との縁戚関係を通じて幕府内での地位を確固たるものとし、以降も霜月騒動での一時的な没落こそあったものの、幕府滅亡まで有力御家人かつ外戚として、北条得宗家との緊密な関係を維持していく事となった。