衣摺(きずり)の戦いとも。
概要
538年に百済から仏教が到来したことをきっかけとして対立した崇仏派の蘇我氏と否仏派の物部氏の
対立は、585年の物部守屋による蘇我馬子の寺焼却によって、急激に更なる悪化に陥った。
587年には用明帝が仏教の信仰を表明した為に、朝廷内で孤立化した守屋は、
用明帝の崩御後、守屋は穴穂部皇子を次期帝に樹立させようと画策していた。
対する馬子は泊瀬部皇子を擁立しようとしていたので、穴穂部皇子を暗殺し、
他の皇子(聖徳太子含む)を味方にして、守屋討伐軍を組織。
馬子は守屋軍へ進軍。
守屋は物部一族を率いて、本拠地・河内(現:大阪)に戻ると、衣摺の館で籠城戦を仕掛けた。
稲を積み上げた「稲城」で包囲・進軍してくる討伐軍から防御しては矢を放ち、何度か撃退。
守屋本人も大木の上から討伐軍を何名か射殺す活躍をしてみせた。
しかし、討伐軍の矢が守屋に射抜かれ、守屋が死亡すると、守屋軍は瓦解。
この戦いで競争氏族であった物部氏の勢いは潰れ、蘇我氏が朝廷内で特に権力を握った。
余談
- なかなか衣摺の体勢を崩せない討伐軍だったが、その際に聖徳太子が仏像を掘って勝利を祈願したという。