概要
物部氏(もののべうじ)は、「物部」を氏の名とする氏族。姓(かばね)は、始め物部連、後に物部朝臣。
大和国山辺郡・河内国渋川郡あたりを本拠地とした有力な豪族で、神武天皇よりも前にヤマト入りをした饒速日命が祖先と伝わる神別氏族。穂積氏や采女氏、出雲国造とは同族の関係にあるが、本来は穂積氏が本宗とする見方もある。饒速日命は登美夜須毘売を妻とし物部氏の初代の宇摩志麻遅命(可美真手命)をもうけた。
特徴と歴史
元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長していった。5世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになった。物部氏は解部を配下とし、刑罰、警察、軍事、呪術、氏姓などの職務を担当し、一説には盟神探湯の執行者ともなったとされる。 また、奈良県天理市街地周縁にある「石上・豊田古墳群」「杣之内古墳群」の被葬者は物部氏一族との関連が指摘されており、諸国の前方後方墳との関連も考えられる。
物部氏は528年継体天皇22年に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられた。これを鎮圧した物部麁鹿火(あらかい)は宣化天皇の元年の7月に死去している。
蘇我氏との対立
宣化天皇の崩御後、欽明天皇の時代になると物部尾輿(生没年不詳)が大連になった。欽明天皇の時代百済から贈られた仏像を巡り、大臣・蘇我稲目を中心とする崇仏派と大連・物部尾興や中臣鎌子(中臣氏は神祇を祭る氏族)を中心とする排仏派が争った。
稲目・尾興の死後は蘇我馬子、物部守屋に代替わりした。大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇は排仏派でありながら、これを許可したが、このころから疫病が流行しだした。大連・物部守屋と中臣勝海は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。
こうした物部氏の排仏の動き以後も疫病は流行し続け、敏達天皇は崩御。崇仏・排仏の議論は次代の用明天皇に持ち越された。用明天皇は蘇我稲目の孫でもあり、敏達天皇とは異なり崇仏派であった。しかし依然として疫病の流行は続き、即位してわずか2年後の587年5月21日(用明天皇2年4月9日)に用明天皇は崩御した(死因は天然痘とされる)。守屋は次期天皇として穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、同年6月馬子は炊屋姫(用明天皇の妹で、敏達天皇の后。後に推古天皇となる)の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。同年7月、炊屋姫の命により蘇我氏及び連合軍は物部守屋の館に攻め込んだ。当初、守屋は有利であったが守屋は河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の本拠地で戦死した(丁未の乱)。同年9月9日に蘇我氏の推薦する崇峻天皇が即位し、以降物部氏は没落する。
天武朝
684年、天武天皇による八色の姓の改革の時に、連の姓(かばね)から朝臣姓へ改めるものがあった。
石上氏
686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみうじ)が本宗家の地位を得た。大和国山辺郡石上郷付近を本拠にしていた集団と見られている。 石上はもともと物部守屋の弟である物部石上贄子が称していたが、のちに守屋の兄・物部大市御狩の曾孫とされる麻呂が石上の家を継いだとする説がある。
石上麻呂は朝臣の姓が与えられて、708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位の位階を贈られた。息子の石上乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は文人として淡海三船と並び称され、日本初の公開図書館・芸亭を創設した。
石上氏は宅嗣の死後公卿を出すことはなく、9世紀前半以降中央貴族としては衰退した。また、石上神宮祠官家の物部氏を宅嗣の弟・息嗣の子孫とする近世の系図がある。
枝族・末裔
物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられ、無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙にいとまがない。長門守護の厚東氏、物部神社神主家の長田氏・金子氏(石見国造)、廣瀬大社神主家の曾禰氏の他、穂積氏、采女氏、出雲国造をはじめ、同族枝族が非常に多いことが特徴である。
江戸幕府の幕臣・荻生徂徠は子孫といわれる。
東国の物部氏
石上氏等中央の物部氏族とは別に、古代東国に物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録がある。扶桑略記、陸奥話記などには陸奥大目として物部長頼という人物が記載されている。いわゆる「古史古伝」のひとつである物部文書に拠ると出羽物部氏は物部守屋の子孫と称しているが証拠はない。一方で六国史に散見する俘囚への賜姓例の中には、吉弥候氏が物部斯波連を賜ったという記録も見える。
下総物部氏
下総国匝瑳郡に本拠を持つ物部匝瑳連の祖先伝承に、布都久留の子で木蓮子の弟の物部小事が坂東に進出し征圧したというものがある。また平安中期に作られた和名類聚抄には下総国千葉郡物部郷〈四街道市物井〉の記述があり、これらについては常陸国信太郡との関連を指摘する説があり、香取神宮と物部氏の関連も指摘されている。
尾張物部氏
古代尾張の東部に物部氏の集落があり、現在は物部神社と、武器庫であったと伝えられる高牟神社が残っている。
石見物部氏
石見国の一の宮「物部神社」(島根県大田市)は、部民設置地説以外に出雲勢力に対する鎮めとして創建されたとする説もあり、社家の長田家・金子家は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。金子家は、戦前は社家華族として男爵に列している。
備前物部氏
岡山県には備前一宮として知られる石上布都御魂神社がある。縁起によると、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した「十握劒」(あるいは「韓鋤(からさひ)の剣)を山上の磐座に納めたのが始まりといわれる。江戸期には岡山藩の池田家から尊崇を受け「物部」姓への復姓を許されており、今の宮司も物部氏をついでいる。大和の石上神宮の本社ともいわれているが、神宮側は公認していない。
国造
先代旧事本紀巻十「国造本紀」には、以下の物部氏族国造があったという。上述の石見国造のように、古代史料には見えないが国造を私称するものも存在する。
史料
先代旧事本紀- 江戸時代の国学によって偽書であることが解明されたが、その頃からすでに内容の一部には独自の史料価値があるとも評価されている。実際に貴重な国造関係の記事や系図史料との符合性の高さゆえ、文献史学からの古代氏族研究者には重宝されている。
考古学
1935年に八尾市渋川町にある渋川天神社操車場を工事した際に、この場所から仏教施設に用いられた塔の基礎や多数の忍冬唐草紋の瓦が出土している。この遺構は物部氏の居住跡である渋川廃寺址とされることから、物部氏を単純な廃仏派として分類することは難しく、個々の氏族の崇拝の問題でなく、国家祭祀の対立であったとする見方もある。
物部布都との関係
太媛・布都姫
物部尾輿の娘であり、物部守屋の妹である太媛、または布都姫は、資料によって多少の差異はあるが、一説では物部守屋の妹で蘇我馬子の妻である。夫である馬子に計略を授け、自分の兄の守屋を謀殺させた。
物部氏の出身ながら蘇我氏に与した人物であり、蘇我と物部の戦争の一因として彼女の謀があったとする説がある。
布都御魂(ふつのみたま)
日本神話に登場する剣の名称。『古事記』では、建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)がこの剣を海上に逆さまに突き立て自身がその切先に胡座をかいて座りながら大国主神(おおくにぬし)に対して国譲りをするよう直談判をしている。また、神武東征神話においては神武天皇が使用している。
奈良県天理市に存在する石上神宮は物部氏が祭祀していた神社で、布都御魂を御神体として祭っている。
この神社の主祭神は布都御魂に宿る神霊である布都御魂大神(ふつみたまのおおかみ)。
物部布都神社(ものべふつじんじゃ)
現在は天手長男神社(あめのたながおのじんじゃ)内の小社として存在しているが、元々は別の場所にあり独立した神社だった。
昭和四十年に天手長男神社に合祀され、現在の形となったとされる。
経津主神(ふつぬしのかみ)
物部氏(物部連)の祭神。
国譲り神話において『日本書紀』では、経津主神が十束剣を海上に逆さまに突き立て自身がその切先に胡座をかいて座りながら大国主に対して国譲りをするよう交渉している。一方、『古事記』ではこの役割は建御雷之男神が担っており(上記の「布都御魂」の項を参照)、経津主神はその存在自体が建御雷之男神に取り込まれてしまっているとされる。
『古事記』と『日本書紀』の違いについては諸説あるが、経津主神は没落した物部氏の祭神であり、建御雷之男神は隆盛を極めた藤原氏の祖である中臣氏(なかとみし)の祭神であることから、経津主神の神格を建御雷之男神が結果的に奪いとった名残とされる。一方物部氏と鳥に関する習俗などから、天鳥船神の別名が経津主神ではないかとする説があり(物部氏祖の邇芸速日命は天鳥船に乗って降臨したとする伝承がある)、それに従えば古事記、日本書紀の伝承はどちらが主か従かの違いだけとなる。また経津主神は天津彦根命の別名であり、物部氏の祖神の一柱ともされる。
守屋山・守屋神社
守屋山
長野県諏訪市と伊那市にまたがる山。標高1651m。「諏訪大社上社のご神体」と表記されているが、あまり根拠はない。 諏訪大社HPには「上社は御山をご神体として拝す」とは書かれているが守屋山とは言ってない。
守屋山が諏訪大社のご神体説が広まった背景には、上社の神長官である守矢氏と同音である事や山岳信仰との結びつきが関係しているのかもしれない。
ただ東方projectにおいては、神霊は神話によって姿形を変えるとされている。多くの人が諏訪のご神体=守屋山だと思えば、きっとそうである。…かもしれない。
他方で、現代の諏訪信仰以前の諏訪信仰、すなわち洩矢神を中心とした古代諏訪信仰にあって、守屋山がどのような位置づけにあったのかは定かではない。ただし守屋山との関係が書かれた書物が存在しないわけではなく、諏訪氏と三輪氏の同族性から古来は神体山として伴っていた可能性もある。
守屋山がいつから守屋山と呼ばれ、なぜそう呼ばれるようになったのかについては一応の伝承があり、古来は「森山」(霊山、神奈備を意味するもり、もろと同義か)と呼ばれていたが、物部守屋を祀ったことから後に名称を改めたと伝わる。「モレヤ」と「モリヤ」が極めて似た韻をもっているのは、単なる偶然の一致なのか。
非常に多層的で謎多き諏訪信仰の本質を解き明かす上で、念頭に置きたい山の一つであることは疑いない。
なお、守屋山山頂からは諏訪湖を眺望することができ、その御姿はとても素晴らしいそうだ。
守屋山の登山口自体がすでに標高1200m以上の場所にあるので登山経験の少ない方でも、ものの1時間半程度で山頂にたどり着くことが出来るらしい。
ただし、途中結構な急登が続くので甘く見てはならないそうだ。
余談
守屋山登山口1の付近には高床式のやたらアジアンな建物が建っている。
かつてこの地に「長谷部アジア公園」という別荘地が開発される予定だったものの名残だそうで、ある意味幻想的である。
守屋神社
守屋山登山口1の付近にある神社。正式名称を物部守屋神社といい、名称の通り物部守屋大連を祀る。小さな神社だが、本殿からもう少し登ったところに祠状の奥殿があり、さらにその上に石祠ようなものが建っている。
神社の由緒について
文献を紐解くと、物部守屋神社は丁未の乱の後蘇我氏と聖徳太子によって滅ぼされた物部守屋大連の子息らが大和からはるばる信濃に逃れ、 藤澤の地に土着した後、昔(先祖)をしのび物部守屋大連を祀って建立した一種の氏神神社のようなものらしい。守屋山には、諏訪守矢氏や古代諏訪信仰の洩矢神にちなむいくつかの謎と物部守屋氏にちなむいくつかの謎が混同しているようにも見える。
モリヤとモレヤという二つの似た響きの語が偶然にも混同を生んだのか、あるいは現に何らかのつながりがあるのかは不明である。
備考
経津主神(ふつぬしのかみ)は、剣である布都御魂(ふつのみたま)を神格化した神との説がある。
建御雷之男神は国譲り神話で建御名方神(たけみなかたのかみ)を打ち負かして諏訪に追いやった神であり、建御名方神をモデルとする八坂神奈子と関連がある。また経津主神を物部氏の祖神とすれば、物部布都との関係も生まれる。
関係タグ
東方関連