概要
古墳とは、一般に日本史上、3世紀後半から7世紀前半に築造された墳丘を持つ古い墓を指す語である。古墳が盛んに造られた時代は古墳時代と呼ばれる。古墳時代以外に築造された、墳丘を持つ墓は墳丘墓と呼ばれ区別される。
小規模な墳丘墓は、弥生時代に盛んに作られたが、弥生末期に大型化し、古墳時代の到来とともに日本特有の前方後円墳が南東北以南の全国に伝播する。これはヤマト王権(後の朝廷)が列島主要部に権力を及ぼしたことを示していると考えられる。5世紀頃にピークを迎え、堺市の大仙古墳(伝仁徳天皇陵)を筆頭に巨大古墳が造られたが、その後は古墳の小型化が進み、朝廷が出した薄葬令により築造が停止された。
7世紀以降にも、朝廷の権力が及ばなかった北東北・北海道では末期古墳と呼ばれる墳丘墓が築造された。
後世の時代には埋葬者も不明になり、土地開発の過程で取り崩され消失する古墳も相次いだ。江戸時代末期に大型の天皇・皇族の陵墓とされるものなどが整備され宮内庁の管轄におかれ保全された古墳もあるが、この傾向は第二次大戦後まで続いた。
第二次大戦後消失した最大級の古墳としては大仙古墳と同じ百舌鳥古墳群に属した百舌鳥大塚山古墳であり、戦前から断続的に取り崩されたことで昭和中期までに完全に消失した。現在でも古墳跡地の住宅周りの道路は古墳の形に沿ったカーブが描かれている。
近隣のいたすけ古墳も大塚山に続く規模を擁した中~大型の前方後円墳として知られ、天皇陵で無いことから同じく宅地開発による消失の危機にあった。しかし市民レベルでの保存運動が巻き起こり、宅地開発は撤回され市の史跡として保存されることが決定された。
これを基に古墳は「取り壊される対象」から「保存される対象」へと切り替わっていった。なお、いたすけ古墳には現在も古墳切り崩しの際その土砂を運び出すための橋脚が古墳から周濠部半ばにかけてかかったままになっており、崩れかけた橋には時折古墳に住み着くタヌキの群れが見られる。
現代残されている大型の古墳は、その表面に木々が生え森のようになっており、遠方からでなくてはその全容を掴めないものが多い。これに対し、木々を伐採し古墳の形を取り戻すべきであるという意見と、緑の減少や動植物の死滅を危惧することからそのままとするべきという意見がある。
2017年、大仙古墳や誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)をはじめとする百舌鳥・古市古墳群が世界遺産の日本国内2019年登録審査候補として推薦されることが決定、2019年7月に百舌鳥・古市古墳群の中の49基の古墳が世界文化遺産として登録された。