平成21年11月、奈良県桜井市の纏向遺跡(太田北微高地)から、大型建物の遺跡が発見された。その地層は3世紀後半と認められる。
纏向遺跡の大型建物は誰の居館であったのか。記名された木簡でも出土しない限り、明確には分からないが、歴史学的に推測は可能である。
大和の磯城、殊に纏向のあたりは大和朝廷の古くからの拠点であり、問題の建物の南・北(共に旧河道)と西(人口の溝口)の三方が水流で囲まれているという近年の考古学者による発掘の成果から、磯城・瑞籬宮、師木水垣宮と明記されている、崇神天皇に相当すると考えられる。崇神天皇の在位は、近年の研究では3世紀前半(西暦258年崩御)と指摘されている。
纏向遺跡の大型建物の広さは、伊勢神宮や出雲大社と比較しても更に大きい。その復元規模は、南北19.2メートル、東西12.4メートル、床面積238.08平方メートルと推定されている。このことから纏向の大型建物は、単なる神殿としてはあまりにも広大であり、天皇の御住居と考えるのが妥当である。
崇神天皇の時代までは、皇居の大殿の中に天照大神・倭国魂神という天神・地祇の代表の神と共にお住まいであったが、国家統治体制の進化と共に祭事と政治の分離が生じ、この際に、地祇を天神同様に尊重して、信仰の調和がはかられた。
纏向の大型建物の広大さからみれば、崇神天皇は最初、「同床同殿の神勅」に知られるように、
神々と一緒にお暮しであったのであろう。
これがやがて共住をやめられるようになるが、当初の住居は、共住にふさわしいふさわしいだけの広大さを必要としたのである。
大型建物を含む四建物の方位はすべて、建物が真北に対して約5度ほど西にふれており、一連の遺構は明確な方向感覚で設計されたことが察せられる。
崇神天皇の時代には「東は日縦、南は日横とし」という方位の記事もあり、もしこのような方向意識が強く現れていたとすれば、纏向の構築物の配置とも関連があるのかもしれない。