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仁徳天皇

にんとくてんのう

日本の第16代天皇で応神天皇の皇子。日本武尊(ヤマトタケル)のひ孫にして、雄略天皇の祖父でもある。
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事績

聖天子伝説

仁徳天皇は、神功皇后摂政57年に応神天皇(八幡神)の御子として誕生された。諱(いみな、つまり本名)は、大雀命(『古事記』)、大鷦鷯尊(『日本書紀』)。いずれも「オオサザキの尊」と読む。応神帝からは美女との結婚を許されたり(後述)、弟君で皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の補佐を仰せつかるなど、張愛と信頼を得ておられた。

父帝が崩御した後、菟道稚郎子と兄王の大山守命(長兄で国土管轄をしていた)の争いで板挟みになったが、弟君に加担して兄王を討伐。菟道稚郎子太子と皇位継承権を譲り合われたが、太子が無くなったので御即位される事となった。

即位後、天皇は高台に登られて国を見渡された所、民家のかまどに煙が立たなかった。「これは民が貧しいからである。3年間の徴税を禁止し、免税とする」と仰せになった。ゆえに、皇居の屋根を葺く材料にも事欠いてしまったが、天皇は気になさらなかったという。3年後、炊煙が盛んに登るのをご覧あそばされて「我は富んだ。素晴らしき事」と仰せられたのを聞いたお后が、この状況下で富めるのはなぜかと問いかけた。すると天皇は、「まつりごとの基本は民。民が富まねば天子である私も富んだ事にはならぬ」と仰せになられた。

諸国の民や権力者が「御殿の修理をせねばならない時、民は豊かになって落し物すら拾得しない。このような時に租税を治めねば天罰を受けます」と言上したが天皇は首を縦に振らず、もう3年間の免税をお続けになった。
しばらくして「天皇にこんな貧相なところに住んでもらうのは申し訳ない」と憂えた民たちによって、天皇は固辞したが、ようやく「好かろう」と思われ、税を解禁された。その詔を拝聴した諸国の民は大挙して都に詰めかけ、自主的に御殿の修理や納税に励んだ。そのため、この陛下を「聖帝」と申し上げる事となった。

この逸話は『民のかまど』と呼ばれ、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。

仁徳天皇は御在位87年目の1月16日、その波乱と善政に満ちた生涯を終え、崩御された。今も大阪府に残る仁徳天皇陵に今も眠り続けておられるのである。

逸話の宝庫

このように、神話にして史書でもある記紀では非の打ち所がない聖天子たる仁徳天皇だが、実はユニークな逸話をいくつも持っている。

  • 応神天皇が日向髪長媛と言う美少女を後宮に入れたいと欲したため、仁徳天皇が迎えに行く事になったが気に入ってしまい、歌を読むなど作戦を駆使して自分の側室にした。事実上の横取りである。
  • 名門葛城氏の姫君である磐之姫命を正室にしておきながら、方々の女性に声をかけては関係していた。それを聞いた磐之姫命は地団太踏んで悔しがり、夫君陛下に抗議するのではなく相手方の女性やその家に、猛烈な弾圧を加えた(実家である葛城氏と、その他のお后を輩出した家の対立とする説もある)。それには流石の仁徳天皇も御手上げで、恋歌を交わして和解したと言う説(古事記など)と、別居したまま終わったと言う説(日本書紀)の二つがある。その辺りは、大国主命スセリヒメを人間化したか、ゼウスヘラの神話を日本化したようなエピソードである。(いずれの神様も好色だが正妻の嫉妬に悩んでいる)
  • 租税免除だけでなく、民に公共事業を行わせる事でインフラ整備を行うなど、国土経営でも善政を行っており、戦争続きだった朝鮮半島からの亡命者経由で大陸と技術や文物の交換を行うなど、内政・外交も敏腕だった。
  • 民に慕われる一方で、宮中内部の争いにも心を痛めていた。弟君の速総別王(ハヤブサワケ)が、仁徳天皇が側室にしようとしていた女鳥王(メドリのひめみこ)に唆されて大逆罪を犯した事があり、天皇は苦渋の末に二人を征伐して処刑した。

以上のように、様々な逸話に富んだ仁徳天皇は人間臭い人物である。だが、大和朝廷の最盛期を築きあげた偉大さは、今も近畿で神として崇められる事で語り継がれている。

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