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グノーシス主義

ぐのーしすしゅぎ

グノーシス主義は、狭義には紀元1世紀から4世紀頃、地中海地域で繁栄した宗教運動である。その教義は「反宇宙的二元論」で代表される。また広義には、ユーラシア大陸に広く流布したマニ教や、イラクのマンダ教、また13世紀に南フランスで興隆したカタリ派も、グノーシスの宗教と見なされる。
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概要編集

グノーシス(Γνῶσις)」とはコイネーギリシア語知識認識を意味する言葉である。この世の真実についての知識・叡智(グノーシス)を獲得して救済を得ようとする思想である。物質、また二元論が、この教えの特徴である。


伝統的には、キリスト教にこの考えを適用したものがグノーシス主義で、キリスト教の異端分派とされた。しかし、20世紀以降、この教えの原典文書が発見され、研究された結果、キリスト教とは別個の宗教と分かった。


詳細編集

グノーシス主義、あるいはグノーシスの宗教については、様々な立場や解釈があり、例えばエレーヌ・ペイゲルスは、「イエスの教えと東洋の教えを混ぜたものがグノーシス主義である」とも主張した。

「東洋の教え・イエスの教え」対「グノーシス主義」編集

しかし東洋の教えとしては、インドヒンドゥー教仏教があるが、グノーシス主義では、「霊と物質」、「善と悪」、更に「至高神と下級の造物神」の二元論が一貫してあり、世界(宇宙)を全体としては善と見なすインドの宗教とは明らかに異なっている。


またイエスのオリジナルな教えは、そもそも不明であり、初期キリスト教の教えで見ても、神は「善の神」で、神の創造によるこの世界もまた、本来、善の世界である。


グノーシスの教えでは、この世界は愚劣な下級の神であるデーミウルゴスが創造したもので、デーミウルゴスは物質の宇宙を創造した。物質は悪であり、悪を創造した造物主が「真の神」である訳がないので、キリスト教の神は「偽の神」である。これは「天の父なる神」に感謝を述べていたイエスの教えとは整合しない。ペイゲルスの主張については、疑問が提示される。

グノーシスの宇宙観と救済論編集

グノーシスの教えでは、真の神は、人間には認識できない原父(プロパテール)と呼ばれる永遠原理で、プロパテールは、善と真実と光と霊に満ちたプレーローマ(充満)と呼ばれる世界に、様々な霊的アイオーンと共に存在する。


プレーローマから下級のアイオーンが暗闇に落下し、落下の果てに、無知で低級の傲慢な霊を生み出した。この低級霊は、無知であるが故に、自己を「至高の神」だと妄信して、物質のこの世界を創造した。世界(宇宙)には、悪、暗闇、無知が満ち満ち、この宇宙に生み出された人間もまた、悪と物質と闇の世界に生きている。


グノーシスの教えは、物質の宇宙は悪であり闇であるが故に、これを否定する。当時のヘレニズム世界では、どのような宗教哲学も、この世界が「悪の宇宙」だと主張した考えはなかった。しかしグノーシス主義は宇宙を悪として否定した。これを「反宇宙論」と呼び、二元論と合わせて、「反宇宙的二元論」と呼ぶ。


グノーシス主義の「知識・叡智(グノーシス)」とは、このような宇宙の真実に気づき、知ると共に、人間のなかには「霊の破片」が存在し、この霊の破片によって、善にして永遠なるアイオーンの故郷へと帰還し、救済される可能性があることを明確に認識することである。

ヘルメス思想とグノーシス主義編集

古代からあるヘルメス思想は、近世になって西欧に伝えられ、魔術錬金術の前提となった思想であるが、プラトンの思想にむしろ源流があり(ネオプラトニズムに近い)、宇宙を善なるものと考えていることから、グノーシスの教えとは明らかに異なっている。


グノーシス主義は世界に存在する「」に着目する、「現存在の態度」がその教えの成立起源である。これはグノーシス主義研究者ハンス・ヨナスが、二十世紀半ばに提唱した説である(ダーザインスハルトゥング Daseinshaltung としてのグノーシス)。


教派(グループ)編集

グノーシス主義にはウァレンティノス派やマルコス派、セツ派など多くの教派(グループ)が存在したとされるが、それぞれで創世神話や世界観がかなり異なっている。しかし、反宇宙的二元論の視点からすると、共通性がある。次に見るように、グノーシスの宗教は、創作神話に特徴がある。それ故、一見すると、まったく異なるように見えるグループも、グノーシスの教派と見なすことができる。


実践において、修道士とも呼べるほどの禁欲的生活をするものがあり、他方、異端反駁者の主張では、道徳をかなぐり捨てて放縦に生きた信者もいたとされる。しかし、後者については、反駁者が主張しているだけで、実証性がない。キリスト教の過激な主張者は、気にいらない分派について、大食漢、性的放縦者、男色者などと、定型的な貶めの言葉を使う慣習があるので、捏造と考えるのが妥当である。


グノーシス主義と他の宗教編集

グノーシス主義には外部の神話伝説の登場人物や神々を取り込んで、新しい神話を作る傾向がある。これをグノーシスの「創作神話」と呼び、グノーシスの宗教相互においても、互いの神話を書き換えることをする。


ただし、このような書き換えや、都合の良い置き換えは、グノーシスの宗教に限らない。宗教は一般に、布教先の先行宗教・土着宗教の神や神話などを利用する。キリスト教だと、土着の神々英雄の一部を、キリスト教の聖者とし、残りは悪魔とするなどは、常套手段である。


キリスト教神話での創作神話編集

ヤハフェと仮幻説編集

ユダヤ教に対しては、『旧約聖書』の神ヤハウェを、グノーシス主義で言う、下級の無知で傲慢な造物神と見なした。しかし、ヤハウェは現実に不合理な神であり、残酷で視野が狭く、虚言を幾度も連ねる神でもある。グノーシス主義では、ユダヤ教の神ヤハウェを悪の造物主と見なし、ヤルダーバオトという名を与えた。


他方、キリスト教救世主イエス・キリストに関しては、グノーシスの考えに合うように、イエスはプレーローマの使者であると解釈し、十字架上でイエスは刑死しなかったという神話を作った。これは仮幻説(ドケティズム)と呼ばれるキリスト教の異端的な思想である。


しかしイエスの神話については、グノーシス主義はイエスの出現とほぼ同じ時期、あるいはそれ以前から宗教として存在し、イエスについての神話解釈権はグノーシスの側にもあった。つまり、仮幻説が妄説だというなら、三位一体とか、『新約聖書』が主張している、「イエスの復活」なども、実証されない妄説だとも言える。前者は「グノーシスの神話」で、後者は「キリスト教の神話」である。

「グノーシス文書」の神話の評価編集

グノーシスの「創作神話」が特に注目されるのは、ほぼすべての宗教が、世界はであるとするのに対し、グノーシス主義は、世界はであるとするため、創作神話が、通常の宗教の世界観に慣れた者からすると、驚くべき飛躍に見えるのが一つの大きな原因である。


グノーシス文書である『ユダの福音書』や『マリヤの福音書』では、通常のキリスト教の理解とは反対の神話が出てくる。イスカリオテのユダが、もっとも忠実なイエスの使徒であったとか、マグダラのマリヤがイエスの恋人で、マリヤがイエス教団の中心であったなどと云うのは、グノーシス派の妄説・妄想のように思える。しかし、「イスカリオテのユダ」の裏切りは、歴史的に実証されていない。他方、マグダラのマリヤがイエスの初期教団において、もっとも有力な信徒であったという可能性は初期キリスト教の研究から出てくる。


イスカリオテのユダやマグダラのマリヤについての「グノーシス文書」の語る処は、グノーシスの教義に合わせた架空の話であると考えられるが、しかし、そのような解釈を行う余地は歴史的には存在した。


置かれた状況編集

新宗教と伝統編集

グノーシス主義は、宗教ではあったが、ハンス・ヨナスの云う「現存在的な態度」に基づいて、世界を悪の世界とする考えであった。ユダヤ教の分派として出発したキリスト教が、当時の地中海世界で広く信仰されていた「復活の植物神」とイエスを重ねることで、新しい独立宗教となったのと異なり、グノーシスの宗教は、宗教としての独自の歴史や神話を元々持っていなかった。


グノーシスの教えは合理性があり、理性に訴える内容であったので、自己の存在基盤に不安を抱いていた多くの人に熱狂的に受け入れられた。他方、キリスト教はユダヤ教の膨大な歴史を継承し、それにイエス・キリスト神話を接ぎ木したもので、不合理な面が多々あった。


グノーシスの宗教は、伝統を持っていなかったが故に、ユダヤ教のヤハウェを造物主デーミウルゴスとして、取り入れ、更にイエス・キリスト神話も取り入れ、「真のキリスト教」だとも自称した。ミトラス教も、ギリシアの宗教も、ゾロアスター教も、エジプトの宗教も取り込んだ。しかし、「真のキリスト教」と称したように、イエス神話がもっとも重要な神話でもあった。ここで、初期キリスト教との争いが起こった。

知性の宗教グノーシス主義とその自滅編集

グノーシス文書『トマス福音書』の冒頭にある「この言葉の解釈を見出す者は死を味わわないであろう」は、信徒に「解釈」を求めている。他方、キリスト教は、信徒に解釈を求めなかった。「信ぜよ、さすれば救われる」「十字架を担ってわたしの後に続きなさい」などは、合理性が疑わしい。しかしグノーシスの「真の解釈」に到達することは難しく、それは知的エリート向けの宗教とも言える。


初期にあっては、グノーシスの宗教は、キリスト教にとって大きな脅威であった。そのため、2世紀、3世紀、4世紀と、リヨンのエイレナイオスを初めとする「異端反駁論者」と呼ばれるキリスト教指導者たちが、グノーシス主義に対する反駁書の形を取った誹謗中傷文書を書き散らした。しかし、グノーシスの信徒たちは、内的にまとまった教団を構成することがなかった。「救済」はそれぞれの人の魂のなかの「霊の火花」の自覚の問題であるので、教団組織を作るモメントを持たなかったのである。


このため、グノーシスの宗教は、キリスト教との争いで、劣勢となって行かざるを得なかった。グノーシス主義は、キリスト教に敗れたと言えるが、寧ろみずから滅びたと云うのが正しい。

キリスト教の国教化と帝国による異端的文化の排除編集

地中海世界はヘレニズム世界として一体化し、ローマは帝国の国教に相応しい統一宗教を必要としていた。キリスト教は、ミトラス教や、ローマ古来の宗教、エジプト、ギリシア、オリエント、ペルシアの宗教との争いに勝ち抜いて、ローマの国教となった。何故キリスト教が、他の宗教と戦って勝利したかは、不明である。


ローマが地中海世界の世界帝国としての権威を獲得するにつれ、帝国の運営に不都合な思想や文化、文学や宗教は弾圧され破壊、消滅させられた。グノーシス関係の文書もまた、帝国の方針で破壊され、消し去られた。しかし、このような文書や文化の破壊は、「グノーシス主義文書」に限ったことではなかった。今日、レスボス島の女流詩人サッポーの作品で、完全な形で残っているものは数えるほどしかないが、これはローマ帝国が意図的に廃棄し破壊したためである。やがて、ギリシアのアカデメイアは皇帝の命令で閉鎖され、アレクサンドリア図書館も廃墟となる。

ナグ・ハマディでの発見に始まるグノーシスの復活編集

ローマ帝国が破壊した文書は、グノーシス文書に限らなかったが、しかし特に、国教となったキリスト教が、仇敵グノーシス主義を徹底的に否定し、その存在痕跡まで消し去ろうとしたのは事実である。そのため、グノーシス主義が実際にどのような宗教思想であったのか、信徒はどのような人であったのか、ほとんど分からなくなった。


20世紀半ばになって、エジプトのナグ・ハマディにおいて、3世紀頃のグノーシス文書原典が大量に発見されたことを契機に、グノーシス主義の見直しや再構成が行われ、今日、異端反駁論者が伝えていたのとは、相当に異なるグノーシス主義の姿が明らかになった。


その後のグノーシス的な宗教編集

地中海領域のグノーシス主義はいったん途絶えたが、グノーシス的な宗教や教えの伝統は、その後もユーラシア大陸に存在した。

また、現代にあって、グノーシス主義を名乗るグループが存在する。これは既存のキリスト教・主流派教会への不満・反感からか持ち上げられることもある。


西方グノーシスと東方グノーシス編集

グノーシスの宗教、思想は、大きく分けて西方系列と東方系列の2種類に分けられる。地中海世界の西方グノーシス主義は、紀元5世紀頃には消滅した。


他方、東方グノーシス主義は、ずっと後の時代まで存続し、イラク南部の「マンダ教」は、現代においても存続して信者が存在し、アメリカ等にもコミュニティが存在する。


また、ペルシアのマニが3世紀ごろゾロアスター教をベースとして各種宗教を取り込んで構成した「マニ教」があった。この宗教は確固とした教団組織や布教組織を持ち、ユーラシアの西から東まで、広大な領域で信徒を獲得した(ドイツのケルンから経典文書が見つかっており、またシナ大陸の泉州にもマニ教寺院があった)。

しかし、西方ではキリスト教の興隆により、また西アジアでは、8世紀頃より、イスラム教の興隆により、勢力圏が縮小して行った。中央アジアから西域、唐帝国の領域まで教勢は進んだが、十世紀頃を最盛期として、中央アジアから勢力は衰退し、やがて15世紀にはほぼ消滅した。


キリスト教の分派と考えられるが、しかし思想的にはグノーシスの宗教の面も持つ中世南フランスのカタリ派があった。ラングドック地方を中心に、カトリックを超える勢力を持ったが、13世紀に信徒は滅ぼされ、この宗教伝統も消えた。

カタリ派は、独自のオック語訳の『ヨハネ福音書』を持っていたことで特筆される。『新約聖書』をラテン語以外の言語で翻訳し、一般民衆が手にしたのは、珍しいことである。

カタリ派の教団組織はマニ教のそれに類似しており、カタリ派の興隆に、マニ教の影響を述べる者もいるが確認されていない。


関連タグ編集

グノーシス 反宇宙的二元論 アイオーン プレーローマ オグドアス ペルフェクティ ヤルダバオート デミウルゴス アカモート アブラクサス ピスティス・ソフィア マニ教 マンダ教 カタリ派 ヨハネ福音書

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