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シャー・ナーメ

しゃーなーめ

『シャー・ナーメ(王書)』とはペルシア文学作品であり、その中で最も有名なものの一つである。
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概要

作者はフェルドウスィー。30年以上の時をかけ、西暦換算で1010年に完成した叙事詩。
書名は(近世)ペルシア語で「王の書」を意味し、いわば「ペルシア王列伝」であるが、ペルシャ神話・ゾロアスター教伝説をイスラム教徒である著者が一神教的世界観に組み立てなおした。
原初の巨人であるガヨーマルトはカユーマルス王になったり、アジ・ダハーカがモデルのザッハークは『クルアーン』に記された魔王イブリースに唆されて堕落する等の改変がみられる。

成立史

サーサーン朝時代末期にヤズデギルド3世によって天地創造からホスロー2世(在位590-628)までの中世ペルシア語(パフラヴィー語)よる歴史書『フワダーイ・ナーマグ』(「王の書」の意味)が編纂され、イスラーム時代に入り9世紀のアッバース朝のアラビア語翻訳運動のなかでカリフ・マームーンらの命令によってこの『フワダーイ・ナーマグ』のアラビア語訳がなされたという。現在ではこのパフラヴィー語版原本もアラビア語版も失われており、その後いくつかの「王の書」系の作品が現れたが、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ』が「王の書」系の作品としては最も長大で完成度の高い作品である。

原本・アラビア語版は早くに失われたようだが、アッバース朝時代初期にはサーサーン朝系のペルシア人や中央アジアのソグド系などのイラン系ムスリム達が宮廷内外で活躍し、アラビア語著書にイラン系の古伝承を多く記録しているが、そのなかで『フワダーイ・ナーマグ』からの要約等が多数みられる。

10世紀にイラン高原東部から中央アジアを統治していたサーマーン朝で近世ペルシア語文芸運動(アラビア文字で書かれるようになって以後のペルシア語の事)が復興すると、アブー・マンスールやダキーキーといった当時を代表する宮廷詩人達がペルシア語による散文や韻文の「王の書」が作られた。この『フワダーイ・ナーマグ』の近世ペルシア語版と言える作品群が当初の一連の「シャー・ナーメ」ものであり、サーマーン朝宮廷とも距離的に近かったイラン高原北東部の主要都市トゥース出身のフェルドウスィーも、このペルシア語文芸復興運動の流れを受けて自らの詩才を注いで『シャー・ナーメ』の著述を始めたものだった。

ところが999年にそのサーマーン朝が隣国のカラハン朝によって滅ぼされ、致し方なく当時アフガニスタンのガズナ(ガズニ)を都としてインド方面等へ盛んに遠征を行っていたガズナ朝のスルターン・マフムードに完成した『シャー・ナーメ』を売り込んだ。しかし、スルタンに詩文の出来はともかく代金が高過ぎると突っぱねられ、支払われる予定だった銀貨5万ディルハムが2万ディルハムに減らされてしまった。これにフェルドウスィーはへそを曲げて貰った代金を立ち寄ったガズナの町の風呂屋や酒屋で全部分け与え、郷里のトゥースに引っ込んでしまった。

しばらくしてから、作品の出来具合を惜しんだ廷臣達の執りなしによって、考えを変えたスルタンは代金として銀貨6万ディルハムに相当するインディゴの塊を駱駝数百頭分の隊商に載せてトゥースのフェルドウスィー宅に運ばせたが、その隊商が到着した時、フェルドウスィーの遺骸を収めた棺がちょうどトゥースの町なかから墓地に出棺される途中だったという。フェルドウスィーは郊外に所有していた庭園に墓所を定めていたので、そこに埋葬された。遺族であるフェルドウスィーの娘は積み荷の受け取りを辞退していたが、説得されて街道筋の休息所建設に当てるならという条件で受け取り、その代金で休息所は無事落成された、と伝えられている。(街道筋のキャラバンサライのような隊商宿や休息所、モスクの補修や建設は、当時の一般的な慈善事業のひとつだった)

構成

約6万対句からなるマスナヴィー詩形(脚韻が対句ごとにどんどん替わって行く形式)。
「王の書」の名の通り、イラン・ペルシアを支配した「列王伝」であり、各の王朝それぞれの王達の事蹟と主要な人物達のエピソードによって成り立っている。
神話時代、英雄時代、歴史時代の3時代に分けられ、王朝としてはカユーマルス王を始祖とするピーシュダード朝、カヤーン朝、(アルサケス朝にあたる)アシュカーン朝、サーサーン朝の4王朝。

ピーシュダード朝
 カユーマルス王によって最初の王権が打ち立てられ、第4代のジャムシード王まで偉大な王が続くが、ジャムシードはザッハークによって殺され、ザッハーク王の治世が1000年続く。
フェリードゥーン王がザッハークを打ち倒して世界の帝王となる。フェリードゥーンは世界を3つの地域に分けて王子達に分け与える。第一の西方のルーム(今のトルコやギリシア方面)は長子サルムに与え、第二のトルキスターンとチーン(中国)は次男のトゥールに、第三のイランの国は三男のイーラジにそれぞれ与えた。今に続く「トゥーラーン」や「イーラーン(イラン)」はトゥールとイーラジに由来する。

フェリードゥーンの曾孫マヌーチフルの時代に英雄サーム、その子「白髪のザール」、さらにザールの子で大英雄ロスタムらが登場する。トゥールの子孫でトゥーラーンの王アフラースィヤーブがイランの国(イーラーン・シャフル)に侵攻しマヌーチフルの子ナウザル王を捕えて処刑したため、ピーシュダード朝が一度滅びる。

カヤーン朝
マヌーチフルの王子のひとりタフマースプの曾孫カイ・クバードがアフラースィヤーブ率いるトゥーラーン軍を打ち破り、カヤーン朝が起きる。アフラースィヤーブとイランとの抗争のなかで、生き別れてトゥーラーン軍の将軍となっていたロスタムの息子ソフラーブとロスタム自身が知らずに決闘する事になり、ロスタムが手ずから息子ソフラーブを討取る悲劇が起きる。

時代は下って、カイ・ダーラーブ王(古代ペルシア帝国のダレイオス1世にあたる)の時代に、ルームの王女がイランの国に嫁いで来た。しかし、悪悪臭の甚だしさのためダーラーブは親元に送り返したが、この時王女は既にダーラーブ王の子を身籠っており、ルームの戻った後男児を出産する。この男児は祖父であるルームとマケドニアのフィルクース王(フィリッポス2世)のもとで養育されてイスカンダルと名付けられた。イランの国はダーラーブ王の子ダーラー(ペルシア帝国最後の王ダレイオス3世にあたる)に受け継がれた。

時が経ってイランの国とマケドニアが戦争となり、イスカンダルはルームとマケドニアの軍を伴いイランの国に攻め入り、ダーラー王は敗退する。ダーラー王が逃亡中に側近に刺され瀕死の状態になるが、駆けつけたイスカンダルはその臨終の時に間に合い、ダーラー王から国事の全てやゾロアスター教の諸信仰や儀式の護持を託され、加えてダーラーの王女ラウシャナク(ロクサネー)を妻とするよう頼まれる。イスカンダルは王の遺志を継ぐ事を誓い、ダーラー王は安堵して息絶える。

イスカンダルはイスタフル(ペルセポリス)にてカヤーン王朝の王冠を頂いて再び即位し、ラウシャナクを王妃として迎え入れる。各地の太守や神官(マウバド)達から公正な王として歓迎され、イランの国での戦闘や破壊活動が収束されるが、イスカンダルは休む間もなくインドへ遠征し、その帰路で病死する。イスカンダルの没後、諸政権の分立状態が起きる。

アシュカーン朝
分立状態をダーラーの子アシュク(アルサケス)が治めて再びイランの国を統一するが、ルームやトゥーラーンとの戦争が度々起こる。
(実際のアルサケス朝パルティアに相当する。イスラーム時代までに伝承されているアシュカーン王朝についての情報は極めて少なく、大抵の資料では十数代にわたる王の名前が列記される程度で、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ』でもその状況はあまり変わっていない。これはアルサケス朝自体歴史書のたぐいを編纂しなかったらしい事や、これを滅ぼしたサーサーン朝がアルサケス朝の事蹟を抹殺した事が関係しているらしい)

サーサーン朝
ダーラーブ王の後裔でイスタフルの神官の家系であったパーパグの子アルダシールがアシュカーン朝のアルダヴァーン王を倒してサーサーン朝を開く。

アルダシールの子シャープール1世が最初の全盛期を開く。シャープールがルーム軍を打ち破り、ルームの王カイサル(ヴァレリアヌス皇帝)を捕える。

その後盛衰を繰り返すが、中興の祖キスラー・ヌーシーン・ラヴァーン(ホスロー1世)が公正な治世を布き、トルコやルームへ盛んに遠征し、国力を高める。サーサーン朝の章ではホスロー1世の部分が最も分量が多い。キスラー・パルヴィース(ホスロー2世)の時代にもルーム(東ローマ帝国)に数度遠征するが、反撃を受けホスロー2世は息子シールーイェに殺害される。王女プーラーン・ドフト、王女アーザルム・ドフト等何人かの王が廃立されるが、ホスロー2世の孫ヤズデギルド3世の時代にアラブ軍が本格的にイランの国に攻め入り、サーサーン朝軍は敗北を重ね、ヤズドギルド3世も東方へ敗走中に暗殺されたため、サーサーン朝が滅びる。

現代文学への影響等

蛇王ザッハークや英雄王ジャムシードなどは『アルスラーン戦記』でもネタにされており、個別の登場人物名は日本でもそれなりに知名度がある。
しかし全訳は未だ刊行されていない。岩波文庫と東洋文庫から訳書が出ているが、一冊本である。原典はホメロスの二大叙事詩を合わせたよりもさらに大容量な作品である。

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中東 ペルシア イラン神話 シームルグ

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