ハドリアヌス
はどりあぬす
IMPERATOR CAESAR PVBLIVS AELIVS TRAJANVS HADRIANVS AVGVSTVS
本名 | プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス |
スペル | PVBLIVS AELIVS TRAJANVS HADRIANVS |
皇帝名 | インペラートル・カエサル・プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス・アウグストス |
スペル | IMPERATOR CAESAR PVBLIVS AELIVS TRAJANVS HADRIANVS AVGVSTVS |
統治 | 117年8月11日 - 138年7月10日 |
世没 | 76 - 138 62歳没 |
表記
- ハドリアヌス、またハドリアーヌス、ハドリアー二、ハドリア
ローマ全土を各地をあまねく視察して帝国の現状把握に努める、元首トラヤヌスによるローマ国家拡張路線を放棄した。気性が荒く恋いも仕事も情熱的な人間で周りが苦労した。少年愛の影響で美青年が好きだったようだ。オリエント方面の巡幸の際にであった美少年アンティノウスとの恋仲は現在でも有名である
(どうゆうことをしたかは語られないが、恋人だったのは事実)
ギリシャの哲学者をまねて『髭面』をした初めてしたローマ元首もでもある、ユダヤ戦争の時にエルサレム神殿を滅したのでユダヤ教徒からは永遠に許されない存在になった。
芸術皇帝
文化面では118年、ローマ近郊のティヴォリに大規模な別荘ウィラ・ハドリアヌスの造営を開始し、同時に後世の新古典主義建築に大きな影響を与えた、今日まで残るパンテオン神殿の再建に着手した。その他にウェヌスとローマ神殿など、ローマ、イタリア、属州各地においてきわめて多数の造営事業を行った。
愛人の少年を神格化
私生活ではビテュニアの美青年の愛人アンティノウス(アンティノオス)を寵愛した。属州アエギュプトゥス(エジプト)視察中にこの美青年がナイル川で事故死を遂げた後は彼を神格化してアンティノウス神とし、神殿を建設した。
寵愛した少年の死を聞いたハドリアヌスは女のように泣き崩れたというその後ハドリアヌスは都市アンティノオポリスを創建したほか、国家中にアンティノウス神像を建てさせた、ローマや元老院属州などには考慮して立てなかったという。ハドリアヌスは天空にアンティノウス座を作ったことが知られている。
頑健な男ハドリア
もともと頑健であったが、晩年は体調不良に苦しみ幾度か自殺を試みるも直前に家内奴隷や当時執政官のアントニヌスに止められた。自身の後継者と決めたルキウス・アエリウス・カエサル (Lucius Aelius) が138年1月に死去するという悲運もあったが翌月にはアントニヌスを養子とし、自らの後継とした。138年7月、バイアエ(Baiae)の別荘において62歳で没した。
功績
ハドリアヌスはその治世を通じ、以下の記述にあるように国内外において目覚しい成果を挙げた。
- 属州 メソポタミアとアルメニアの放棄による東部国境の安定化ならびに防壁建造などによるローマ周辺地域防衛策の整備。
- ローマ帝国全体の統合と平準化
- 2度にわたる長期の巡察旅行
- 官僚制度を確立し、行政制度を整備
- 法制度を改革
冷酷な一面
ハドリアヌスの性格は気難しく陰鬱なうえ、短気であり、冷酷な決断も辞さないところもあった。治世当初の執政官経験者4名の殺害はこれを反映している、ハドリアヌスは、防衛に必要な兵力や維持費等の負担増に耐え切れないと判断し、先代トラヤヌスが獲得した領土のメソポタミア、アッシリア、アルメニアから撤退するという現実路線に切り換えた。
当時の元老院には実際に戦場へ赴いて領土拡大に貢献した者もおりハドリアヌスの対外政策には批判的な者がいた。元老院の一部には、激しく反発するものもいたのであろう。これに対してハドリアヌス擁護派は、反対派の大物4人を粛清するという強硬策に訴えた。
治世末期の後継者選びの際にも、意見の不一致から義兄弟ユリウス・ウルスス・セルウィアヌスとその孫ペダニウス・フスクスを自殺に追いこんだ。そのため治世末期、皇帝と元老院の関係は緊張していた。いくつかのグループとの関係が緊張していたにすぎないと見る向きもある。
崩御
晩年、不治の病を患い体が蝕まれたハドリアヌスはますます陰鬱・人間不信が増し、ティボリの別宮へ隠遁し、アントニヌスを後継者として指名した後すぐにそこで崩御した。138年 享年62歳
崩御後
ハドリアヌス元首逝去の後、元老院ではハドリアヌスを神格化し国家神の列の加えることに反対する動きがあった。
『記録抹殺刑』寸前
神格化されないと、かつての暴君であったドミティアヌス元首のように記憶の抹殺が行われハドリアヌスの統治に関する行為はすべて抹消されることになる。後継者のアントニヌスは涙を流しながら必死に元老院の説得に努め、ハドリアヌス神格化について元老院の同意を得ることができた。
慈悲深いアントニウス執政官
アントニヌスはアントニヌス・ピウス(敬虔なアントニヌス)と呼ばれることになった。
ローマ元首の業績を称える碑が多いローマにおいて五賢帝の一人とされるハドリアヌスの巡幸を称える碑は見つかっていないことは、いかに元老院との関係が悪かったかを表しているようにも思える。
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