ローマ人
ろーまじん
イタリアに植民都市を建設した古代ギリシャ人から古代ギリシャ文明を受容し、民族の神話や文物に取り入れた。
ローマはラテン人が作った都市国家の一つだったが、周辺のラテン人国家とのラティウム戦争(第一次:BC498年~BC493年、第二次:BC340年~BC338年)で勝利し、全ラテン人をローマ住民として同化した。
古代ローマにおいて、市民権を有していた人をロマヌスという。絶えざる征服・併合とともに、征服した諸民族に市民権を与えることで、地中海世界がローマ化していった。
男性は髭ははやさず、髪は短く刈り込んでいるものが多く、毎日の無駄毛の処理を欠かすことはなかった。古代ギリシャへの憧れからハドリアヌス帝が顎鬚や巻髪にすると、それも流行した。
金髪への憧れから婦人たちは髪の脱色に励み、美容師もそれを得意としていた。ゲルマン人から購入した金髪で作ったウィッグも売られていた。ヘナで染色した赤髪も人気があった。
果物・魚を好んだとされ、肉食生活をする蛮族を嫌悪していたという。
黎明期のローマ人は長方形もしくは半円形の羊毛布を体に巻きつけていた。
古代ギリシャ文明の受容により男性はトゥニカ(チュニック)の上にヒマティオンのような一枚布の上着、トガを纏った。これは時代が下るにつれ長くなり何重にも体に巻き付けるようになった。その煩わしさから帝政末期には衰退し、上流階級のみの着衣となる。
BC3世紀ごろからダルマチア地方の民族服「ダルマティカ」がキリスト教徒を中心に着られ、キリスト教の国教化と共に公服となった。
履物はサンダルを愛用した。
伝説ではローマ人の始まりは古代ギリシャ時代、トロイア戦争で敗北したトロイの将軍アイネエス(神)がイタリア半島にまで逃げ延びた時、つき従っていた兵士がローマのあたりで集落を作り、それが後世の『ローマ人の氏族』となったとされている。
アイネエスが集落を作った場所の神代の国家は都市国家アルバ・ロンガという都市国家であり、後世のローマ市の土地は当初都市国家アルバ・ロンガの支配地域に入っていた。
ローマ神代時代の終わりころ、ローマ神話の軍神マールスの子としてアルバロンガで生まれたとされるロムルスとレムスの兄弟が、アルバ・ロンガ政治の内乱を鎮め自身がアルバ・ロンガの首長となった。
その後、ロムルス兄弟は都市国家アルバ・ロンガから、現在の『ローマ市』のあたりに新たに都市国家を建設することにした、ロムルスはローマ王となりこれが後代の都市国家ローマとなる。
ここの都市に住むものが『ローマ人=ローマ市市民』という認識になっていった。
アウグストゥスの統治時代より奴隷民がある程度尊重された属州民に格があがった。アウグストスはローマの常備軍を創設し、共和国全体(帝国各地)の属州から人員募集する時の特典として25年間ローマ軍に努めればそのご家族と末代までローマ市民となれるようにした。
コンスタンティヌス1世によるキリスト教解禁やテオドシウス1世によるキリスト教国教化により、ローマ人はキリスト教徒となった。同時にキリスト教世界の正統な民=ローマ人という観念も生まれ始めた。
ローマ東西分裂後、西ローマ帝国ではゲルマン人や、フン族の攻勢を抑えきれず、緩和策としてゲルマン人にもローマ人籍を与えた。これは居座っていいからこれ以上暴れないでくれという意味合いが強く、西ローマ帝国ではゲルマン人が要職を占めるようになっていく。
西ローマ帝国の滅亡後もドイツ人国家である神聖ローマ帝国などでローマ皇帝が即位する時には『ローマ人の皇帝万歳』という文句がつくなどヨーロッパの各民族の中にローマ人籍への憧れは残った。
東ローマ帝国は西ローマ帝国滅亡後も1000年に及び存続したが、帝国の公用語はラテン語ではなくギリシャ語であり、民族的にもギリシャ人が中心だったことなどから、国民は次第にギリシャ人意識を持つようになり、中期以降は名実ともにギリシャ人の帝国と化していった。
とはいえ東ローマ帝国が健在な間は「ギリシャ人=ローマ人」という意識も残っていたようで、東ローマ帝国の滅亡後もイスラム教国家であるオスマン帝国では正教会の信徒を「ルーム」と呼んでいた。
現在でもトルコ語ではトルコ国内に居住するギリシア人を「ローマ人」を指す「ルム(Rum)」の名で呼んでおり、当のギリシャでも中央ギリシャ地方を指して「ローマ人の土地」を意味する「ルメリ(Ρούμελη)」と呼ぶ事がある。