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コンスル

こんする

古代ローマにおける最高位の公職。帝政以降は名誉職化したが中世ローマ帝国まで存続した。日本では訳語の「執政官」あるいは「統領」で知られる。

古代ローマにおける最高位の公職。帝政以降は名誉職化したが中世ローマ帝国まで存続した。


コンスル(Consul)とは古代ローマにおける最高位の公職。特に共和政期においては名実ともにローマを担った。訳語としては「執政官」、あるいは「統領」が用いられるのが一般的。

なお現代語のConsulとは領事を指す。

 

定員2名で任期は1年。ローマでは年頭に就任したコンスル二人の名前でもってその年を表した。欠員が生じた場合補充されるがその任期は前任者のものを引き継ぐ。

伝説では王を追放したのちルキウス・ユニウス・ブルートゥスとルキウス・タルクィニウス・コラティヌスが初代のコンスルに就任したとされている。定員が2名であるのもこの伝説に由来し独裁者を生まぬためとされる。なお現代の歴史家からは初代コンスル2人の実在は疑問視されている。


コンスルはざっくり言えば選ばれた任期制の王であり、その権力「インペリウム」(命令権)は戦場においては軍団を指揮する「力」ともなる。ローマが広い範囲で戦争を行うようになると多数の軍団とその指揮者たるインペリウム保持者が必要となり、コンスル以外にインペリウムを与えられた公職として「プラエトル」が設置されたり、コンスル経験者を前コンスルとしてインペリウム保持者と認定する「プロコンスル」が運用されたりもした。


コンスルは軍団の指揮者という性格上「兵員会」と呼ばれる民会で選ばれる。

当初、コンスルはパトリキ(貴族)のみが就任できたが、前367年に成立したリキニウス・セクスティウス法以降はプレブス(平民)も就任することが可能となった。


コンスルの力は強力なものではあったが実際の共和政ローマの政治ではこのほかに諮問機関たる元老院と民会がプレイヤーとして存在した。コンスルに就任する者は元老院にも属しており、またコンスル経験者も多数在籍する元老院の威光は現職のコンスルにも小さくない影響を与えた。またコンスルを選出する民会も、学説上は一時期軽視もされたが、当然ながらローマの政治に影響力を発揮していた。

コンスルの性格が大きく変わるのはアウグストゥスによって帝政(元首政)が行われるようになってからである。

余談だがローマ帝国と訳される「インペリウム・ローマーヌム」とは上述したコンスルらが持つローマのインペリウムのことで、副次的にそのインペリウムが通用する範囲を指す地理的な意味を持ったものである。


共和政末期よりローマの権力は現職のコンスルというよりも強力な軍隊を現に指揮する者が担うようになっていく。内乱の最終的な勝利者となったアウグストゥスは様々な公職の権限を束ねて保持しローマ皇帝として実質的にローマを支配していくことになるのだが、その保持する権限の中には「同僚を持たないコンスルの権限だけ」が含まれていた。これは「優越的なプロコンスルのインペリウム」「護民官職権」と並んでローマ皇帝の中核的な権限とみなされている。

一方で従来通りのコンスル職も廃止されることなく存続している。実質の権力者としてローマ皇帝が存在する以上半ば名誉職のような扱いではあったが、なお最高位の公職として尊重されていた。重要な属州の総督のような要職にはコンスル就任経験が必要とされ、1年の途中で退任させることで毎年多数のコンスル経験者が生まれるのが通例化した。またその時々の皇帝によって多寡はあるが皇帝自身がコンスル職に就任することも幾度も見られた。


時代が下ってコンスタンティノープルへ都が移されてからもコンスルは存続した。コンスルは西ローマでは滅亡(476年)まで存続し、東ローマではユスティニアヌス帝治世中の541年に廃止されるまで官職として存在し、ユスティヌス2世以降は名誉的な爵位として復活、存続し、ギリシャ語公用語化以降は「ヒュパトス」と呼称される。


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