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概要編集

漢字表記は察必(チャピと表現することも)。『集史』のペルシア語表記では چابوى خاتون Chābū'ī Khātūn(チャブイ=ハトゥン)で、諡は昭睿順聖皇后。出自部族はコンギラトで、チンギス・ハーンの正室として有名なボルテを伯母(父のアルチ・ノヤンの姉)に持つ。


いつ頃からクビライと出会ったかは不明だが、次男で大元最初の皇太子であるチンキム親王が1243年に生まれており、彼の兄にあたる長男ドルジを生んでいることからそれ以前のことと思われるが、詳細は不明。 ドルジ・チンキム・マンガラ・ノムガンの4子は嫡子と言うこともあって、王朝内部で重鎮として扱われた。


1273年にはチンキムが立太子し、その母であるチャブイにも皇后の印璽が授けられた。また、姉の夫であるアントン(モンゴル人)が行政機関の長官に、チャブイの側近であったアフマド・ファナーカティー(中央アジアイスラム教徒)が財政関係の役職を賜るなど、彼女の権勢は揺るがないものであったとされる。


それから8年後の1281年、クビライを補佐して長い年月を過ごしたチャブイは死去。それと同時にチンキム擁立派とアフマドの派閥が対立し、アフマドが殺害される事件が起こるなど、彼女のまとめ役・重鎮としての存在は大きかった。


クビライの崩御後、チャブイも昭睿順聖皇后と追尊された。


逸話編集

  • 夫の弟でもあるアリクブカ皇子の反乱が起きた際、夫を陰ながら補佐した。古い弓から弦を外して

布を織らせる、つばの広い蒙古風の帽子をつば付きに改良するなど、才媛として名高かった。


  • 彼女の意志で4人の息子や姉婿が昇格した事や、アフマドが暴利を貪った逆臣としての側面もあったことから権力欲が強かったように見られがちだが、実際は質素な暮らしぶりを貫いた生涯だったと言われる。が滅亡した時も「我が国がそうならないように祈るだけ」と浮かれることなく、冷静であった。

  • イスラム教徒の商人を優遇したが、彼女はチベット仏教に帰依しており、チベット人からも支持された。また、先述した宋の皇族が北の大都(北京)に連れて来られた時、屈辱的降伏儀礼をさせなかったり、故郷である華南に帰らせるよう進言するなど、人格者だったとも言われる。

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