概要
「ゼップ(Sepp)」は愛称で、本名はヨーゼフ・ディートリヒ(Josef Dietrich)。
第1SS装甲師団長・第1SS装甲軍団長・第6SS装甲軍司令官を歴任し、「パパ・ゼップ」と呼ばれ隊員に親しまれた。
一方、肉屋を辞めて陸軍に志願し、怪我で除隊後に第一次世界大戦で再び入隊して副曹長をとして退役した下士官であり、士官教育を受けていなかったため、軍事作戦等に関しては素人であることが度々指摘される。
第一次大戦後はしばらく警察官をしていたが、早いうちにNSDAPに入党した古参党員。
警察官出身の経歴を買われ、党の要人警護や集会の警備などをしていた。
そのためヒトラーのボディガードをしたりしていたが、そこから親衛隊の一員となり、のち武装親衛隊に転じた。
軍事的な知識、作戦上の計略を働かせるような頭脳はともかく、親分肌的な性格で人望と統率力はあったようだ。
部下たちからの人気は第二次大戦後も衰えなかったようで、死去した時には多くの元部下が葬儀に参列していた。
余談
●ヒトラーからはザイドリッツなどに匹敵するとして将軍の才能を評価されていたが、軍事地図すら満足に読むことも出来ず、初期の武装親衛隊の軍隊教育では元陸軍中将であるパウル・ハウサーと教育方針で対立したが、結局はハウサーの方が成果を出した事で自身の部隊の教育も任せている。
陸軍長老格のゲルト・フォン・ルントシュテット元帥は彼を「まともではあるが愚か者」と評してバルジの戦いでの不手際を指摘した。
この戦いでは、作戦前に敵後方に降下して進撃路を確保する「シュテッサー作戦」の指揮官であるフリードリヒ・フォン・デア・ハイテ中佐が打合せの為に司令部に出頭した折に、オットー・スコルツェニー中佐の米軍への偽装作戦であるグライフ作戦と混同していたり、ハイテ中佐が降下時に無線機の損害も考慮して伝書鳩も貰いたい旨を述べると「伝書鳩がなくとも俺は一個軍を指揮している」と嘲笑して拒絶したという。
作戦後は事前に決められた各部隊のルートを無視して第5装甲軍のルートを使ったうえに、第5装甲軍が勝手に第6SS装甲軍のルートを使用していると文句を言い、ヴァルター・モーデル元帥などの国防軍将軍達の侮蔑を買っている。
オーデル河まで進出してきたソ連軍を陸軍参謀総長ハインツ・グーデリアン上級大将は南北から二個軍で挟撃して壊滅させる冬至作戦を計画し、南からの反撃にバルジの戦いから引き上げて来た第6SS装甲軍を希望していたが、ヒトラーはそれをハンガリーでの反撃計画の為に使用するつもりで許さず、代わりにディートリッヒを会議に出席させて冬至作戦への意見を言わせており、グデーリアンにとっては「欲しいのは第6SS装甲軍で、お前の意見ではない」との気持であっただろうと思われ、ヒトラーとのディートリヒの軍事能力に対する認識度の違いを露わにしている。
因みに作戦はソ連軍に側面の脅威を認識させたが、ドイツ軍からはソ連軍は反撃を受けた事に気付いていないのではないかと思われる程の結果に終わっている。
●親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーとはライプシュタンダルテの隊長の折から、隊はヒトラーの直属であり、ヒムラーの指揮下ではないと対立するなど良好な関係では無く、武装親衛隊が国防軍に染まる事を嫌うヒムラ―の干渉を嫌い、一説には国家徴章を親衛隊の銀モールでなく国防軍の金モールで刺繍したとも言われる。
またヒトラーからの信任とは対照的に彼自身はヒトラーの作戦指導に不信感を持っていたとも言われ、
ハインリヒ・エーデルバッハ大将の言では「アディ(ヒトラーの愛称)が我々を破滅に導いた」とヒトラーに知らせる事を約束したという。
●ヒトラーからは個人的な信頼を得ていたため、指示を無視しても処罰される事はなく、昇進し続けた稀有な人物だった。しかし、大戦末期の「春の目覚め作戦」でハンガリーに転出された際には戦力が完全に消耗しており、たった20キロの前進しか叶わなかった。この結果にヒトラーは激怒し、ライプシュタンダルテ部隊に袖章の剥奪を決定。流石のディートリヒもこれには大激怒して将校達に「皆、勲章を小便壺に放り込んで17師団の袖章にすげ替えろ」と悪態をついたという。以降はヒトラーとの信頼関係が崩壊したこともあり、総統命令を無視してもオーストリアに転身。ソ連軍の追撃を振り切る事に成功し、多くの部下の命を救うことにも繋がっている。
●身長が158㎝で、173㎝のヒトラーと比べるとヒトラーが見栄えするという理由で護衛隊長に選ばれたという説もある。(実際はディートリヒは170㎝はあったとも言う)
●ハンガリーから大損害を受けてオーストリアに撤退した折に「どうして第6SS装甲軍と言うか知ってるか? 6台しか戦車がいないからだ」と自虐的冗談を口にしたという。