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ジョージ・パットン

じょーじぱっとん

ジョージ・パットン(1885年11月11日~1945年12月21日)とは、第二次世界大戦時にアフリカ戦線・欧州戦線で活躍したアメリカ陸軍の将軍。

概要編集

フルネーム「ジョージ・スミス・パットン・ジュニア」。


1885年11月11日、カリフォルニア州サンガブリエルに誕生。

父は裕福な弁護士で、祖父は南軍将校。オデッセイイリアッド等を読み聞かされ、祖父の友人ジョン・S・モズビーに戦場での英雄譚を聞かされて育ち、幼少時から英雄願望が強かった。

輪廻転生北欧神話を信じ、自分はハンニバルの再来と主張した。前世ではナポレオンと共に戦ったとも、ローマの軍団兵であったとも言っていた。

基礎的な学習能力に問題があり、失読症だったとされる。


1904年、バージニア兵科学校から陸軍士官学校に移籍。在学中はアメリカンフットボール・チーム「ブラックナイツ」の花形選手として活躍。学業成績は振るわず1年留年する。


1909年、陸軍士官学校を卒業。アメリカ陸軍第15騎兵連隊へ配属され少尉となる。ベアトチスエアと結婚。


1912年、ストックホルムオリンピックに近代五種の選手として出場し、四種目で3位以内をキープするが、射撃競技のノーポイント判定が祟って5位。「オリンピックは所詮ヨーロッパ人のもの」と周囲に不満をもらした。

フランスに留学してソミュール騎兵学校で剣術を学ぶ。


1913年、フォート・ライリーの騎兵学校で騎兵剣術の教官となる。

1913年型騎兵サーベルのデザインを行う。これがアメリカ陸軍最後のサーベルとなった。


1916年、第13騎兵連隊に配属。メキシコ国境戦役でジョン・パーシングの副官としてビリャ討伐遠征に加わる。遠征は失敗だったが、パットンはフリオ・カルデナスを殺し、死体を車のフェンダーにくくりつけて司令部に出頭し、パーシングを喜ばす。


1917年、アメリカ第一次世界大戦に参戦。

パーシングはパットンを大尉に昇進させ、副官として派遣軍司令部に置く。司令部勤務に退屈したパットンは、パーシングに実戦部隊への転属を直訴。


1918年、野戦任官で少佐に昇進。新設された第304戦車旅団の旅団長となる。パットンは、次の戦争は塹壕戦でなく機動力で勝敗が決すると感じた。

アメリカ戦車部隊初の実戦となるサンミエルの戦いに出撃。

ムーズ・アルゴンヌ攻勢中、指揮官を失って苦戦する歩兵部隊をみかねて下車し、歩兵の先頭に立って突撃し、負傷。後送され入院中に第一次世界大戦は終了。殊勲十字章を授与され大佐へ野戦昇進。

戦争終結で野戦任官が解かれ、大尉に復帰。改めて少佐に昇進。陸軍省出仕となり、ドワイト・D・アイゼンハワーと知り合う。

戦車部隊の予算獲得のため議会に提案を行うが、陸軍予算が縮小され認められなかった。


パットンにとって英雄になれない平和な時代は耐えがたかった。

退屈を紛らすため馬術競技やポロに興じ、ヨットスポーツカーなど趣味に打ち込むが、ヨーロッパ貴族のような優雅な生活は、薄給で生活もままならない上官・同僚たちに妬まれるだけだった。私生活でも異常な行動が見られ、親族から疎まれた。

傲慢な態度は軋轢を生み、結果さえ出せば上官からの非難叱責を無視しても問題ないと思うようになる。


1932年、第一次世界大戦の復員軍人が処遇改善を求めワシントンD.C.でデモを行う。パットンは軍参謀長ダグラス・マッカーサーの元、独断でデモを武力鎮圧し、多数の死傷者を出す(ボーナスアーミー事件)。マッカーサーが全ての責任を被ったため、不問に付される。


1939年、第二次世界大戦が勃発。電撃戦に触発されたアメリカ陸軍は装甲師団を編成することとなる。パットンは生気を取り戻す。


1940年、パットンは第2装甲旅団の旅団長となり准将に昇進。


1941年、第2装甲師団の師団長となり少将に昇進。

夏から翌年にかけ、全軍の能力をテストする大規模演習(ルイジアナ演習)が行われた。

パットンの部隊は補給に苦しみ、民間のガソリンスタンドから給油を受け、その他の物資もポケットマネーで現地調達したため、「負け」判定を受ける。


1942年、カリフォルニア州インディオの砂漠機動戦訓練センターの所長となる。

11月、「トーチ作戦」の西部任務部隊の指揮官としてモロッコに上陸。


1943年2月、カセリーヌ峠の戦いでアメリカ第2軍団は大損害を受けた。

3月、アイゼンハワーは連合軍部隊の再編成を行い、第18軍集団を編成した。第2軍団司令官ロイド・フリーデンダールを罷免し、中将に昇進させたパットンを後任に充てた。アイゼンハワーの代理としてオマール・ブラッドレー少将が副司令官に任命された。

パットンは第2軍団に厳しい規律と訓練を課し、軍団の運用方法の改善も行った。

3月3日、イギリス第8軍(バーナード・モントゴメリー大将)は、マレス・ラインを迂回して枢軸国軍の背後への攻撃を開始。パットンのアメリカ第2軍団は反撃するイタリア第1軍(旧・ドイツアフリカ装甲軍)を後方から攻撃し挟み撃ちにした。枢軸国軍はマレス・ラインを放棄し、後退した。

5月、チュニジアのドイツ軍が降伏。


7月10日、イギリス第8軍がシチリア島東南海岸、アメリカ第7軍(パットン中将)が南西側海岸に上陸し、ハスキー作戦が開始された。

アメリカ第7軍の任務は、メッシナへ向かうイギリス第8軍の側面援護のため島の西部を制圧する事だったが、アメリカ第7軍は4日で160kmを進撃してパレルモを攻略。西方からのメッシナ攻略を開始する。

7月13日、アメリカ第7軍はイギリス第8軍よりわずかに早くメッシナへ到達し、パットンはモントゴメリーの鼻を明かした。

ハスキー作戦中、パットンは野戦病院を見舞ったが、砲弾神経症(シェルショック)で精神状態が不安定になった兵士を、ただの臆病者と勘違いして殴打した。医師からの報告を受けた司令部の判断で事件として報道された。

世論が厳しいため、アイゼンハワーはパットンを本国に送還する気だったが、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長の意見を容れ、第7軍司令官の地位を剥奪するにとどめた。パットンは自分が殴った兵士と現場の兵士達に謝罪した。


1944年6月、総司令部はノルマンディー上陸作戦に先駆け、パットンをアメリカ第1軍集団(架空)の司令官として公表し、「フランス侵攻はパ=ド=カレーから」とドイツ側に思わせるよう欺瞞活動を行った。


7月、第3軍司令官に任命され現場復帰。上司はアフリカ時代の部下、アメリカ第1軍司令官ブラッドレー(作戦中に第12軍集団司令官へ昇格)であった。

コブラ作戦では、イギリス軍によるドイツ軍拘束後の8月1日から、パットンの第3軍が3方向に展開してブルターニュを席捲した。

その後、一気に南下した後東進し、南側からファレーズのドイツ軍を締め上げて北側のイギリス軍と手を結び、包囲に成功。

ドイツ軍が壊走したため、その後連合国軍は急進可能となり、8月25日にはパリが解放された。パットンの第3軍はロレーヌを目指して2週間で600マイルを進撃し、9月に補給の問題で停止するまでに北フランスの半分を解放した。

9月からのメスの戦いではドイツ軍の抵抗で3ヶ月にわたる苦戦が続いた。


ドイツ軍によるアルデンヌ攻勢最中の12月22日、パットンの第3軍はバストーニュのアメリカ第101空挺師団を救援に向かった。12月27日に第37機甲大隊(エイブラムス中佐)が第101空挺師団の元にたどり着き、バストーニュの包囲は破られた。


1945年3月26日、アメリカ第3軍第4機甲師団から抽出されたバウム隊(指揮官バウム大尉。約300名)は戦線後方100kmにある捕虜収容所を解放するために出撃。ドイツ軍はバウム隊を3重に包囲。バウム隊は解放した捕虜収容所に押し戻され、脱出を図るも全滅した。

パットンが捕虜になっている自分の娘婿を救出しようと、部隊を私的な目的に使用したもので、報道管制が敷かれ表沙汰にはならなかった(ハンメルブルク事件)。


その後、ライン川渡河作戦、チェコスロバキアに侵入など第3軍は進撃を続け、5月8日のドイツ降伏まで止まることはなかった。


バストーニュ戦でパットンは国民的英雄となったが、成功を収めたことで命令無視や問題行為が顕著になった。

9月、赤軍の祝勝観閲パレードではゲオルギー・ジューコフ元帥を挑発した。

バイエルン州軍管区司令官として連合軍総司令部の非ナチス化政策を批判し、その謝罪記者会見で「ドイツ国民にとってのナチスはアメリカ国民にとっての民主党と共和党と同じようなもの」と述べ、アメリカの政党をナチスと同レベルで扱った事でアメリカ国民を怒らせた。

自説を曲げないパットンを庇いきれず、ハンメルブルク事件の件もあって、アイゼンハワーはパットンを解任し戦史編纂を担当する第15軍司令官に左遷した。


12月9日、狩猟に出かける途中、乗っていたキャデラックがアメリカ陸軍のトラックと衝突した。軽微な事故で運転手も同乗していた参謀長もケガはなかったが、後席に座っていたパットンは前席との間のパーテーションで頭を打って頚椎を損傷し、首から下が麻痺した。

21日、肺塞栓症を起して死去。享年60歳。

ルクセンブルクのアメリカ軍墓地に埋葬された。パットンの突然の死に暗殺説も流布された。


関連タグ編集

アメリカ陸軍 軍人 パットン大戦車軍団

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